を残した。
湯河板挙《ユカハダナ》の精霊の人格化らしい人名に、天[#(ノ)]湯河板挙があつて、鵠を逐ひながら、御禊ぎの水門《ミナト》を多く発見したと言うてゐる。地上の斎河《ユカハ》を神聖視して、天上の所在と考へる事も出来たからである。かうした習慣から、神聖観を表す為に「天《アメ》」を冠らせる様にもなつた。
一三 筬もつ女
地上の斎河《ユカハ》に、天上の幻を浮べることが出来るのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかへは感じなかつたのである。たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]は、天上に聖職を奉仕するものとも考へられた。「あめなるや、弟たなばたの……」と言ふ様になつた訣である。天の棚機津女を考へる事が出来れば、其に恰も当る織女星に習合もせられ、又錯誤から来る調和も出来易い。
おと・たなばた[#「おと・たなばた」に傍線]を言ふからは、水の神女に二人以上を進めた事もあるのだ。天上の忌服殿《イムハタドノ》に奉仕するわかひるめ[#「わかひるめ」に傍線]に対するおほひるめ[#「おほひるめ」に傍線]のあつた事は、最高の巫女でも、手づから神の御服を織つたことを示すのだ。
古代には、機に関した讃へ名らしい貴女の名が多かつた。二三をとり出すと、おしほみゝの尊[#「おしほみゝの尊」に傍線]の后は、たくはた・ちはた媛[#「たくはた・ちはた媛」に傍線](又、たくはた・ちゝ媛[#「たくはた・ちゝ媛」に傍線])と申した。前にも述べた大国|不遅《フヂ》の女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ[#「かりはたとべ」に傍線](今一人かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]をあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべ[#「おと・かりはたとべ」に傍線]と言ふ。くさか・はたひ媛[#「くさか・はたひ媛」に傍線]は、雄略天皇の皇后として現れた方である。
神功皇后のみ名おきなが・たらし媛[#「おきなが・たらし媛」に傍線]の「たらし」も、記に、帯の字を宛てゝゐるのが、当つて居るのかも知れぬ。
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ひさかたの天《アメ》かな機。「女鳥《メトリ》のわがおほきみの織《オロ》す機。誰《タ》が料《タネ》ろかも。」
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記・紀の伝へを併せ書くと、かう言ふ形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持つて居られた。此仁徳の御製と伝へる歌なども、神女として手づから機織る殿に、おとづれるまれびと[#「まれびと」に傍線]の姿が伝へられてゐる。機を神殿の物として、天を言ふのである。言ひかへれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびと[#「まれびと」に傍線]を待つてゐる事を、示す事にもなつて居たのであらう。
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天孫又問ひて曰はく、「其秀起《カノホダ》たる浪の穂の上に、八尋殿|起《タ》てゝ、手玉《タダマ》もゆら[#「ゆら」に傍点]に織《ハタ》※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]《オ》る少女《ヲトメ》は、是誰が女子《ムスメ》ぞ。」答へて曰はく、「大山祇[#(ノ)]神の女等、大《エ》は磐長姫と号《ナノ》り、少《オト》は、木華開耶姫と号《ナノ》る。」……(日本紀一書)
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此は、海岸の斎用水《ユカハ》に棚かけ亘して、神服《カムハタ》織る兄《エ》たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]・弟《オト》たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の生活を、稍《やや》細やかに物語つて居る。丹波道主貴の八処女の事を述べた処で、いはなが媛[#「いはなが媛」に傍線]の呪咀は「水の女」としての職能を、見せてゐることを言うて置いた。このはなさくや媛[#「このはなさくや媛」に傍線]も、古事記すさのを[#「すさのを」に傍線]のよつぎを見ると、其を証明するものがある。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]の子やしまじぬみの神[#「やしまじぬみの神」に傍線]、大山祇神の女「名は、木花知流《コノハナチル》比売」に婚《ア》うたとある。此系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめ[#「このはなちるひめ」に傍線]も、さくやひめ[#「さくやひめ」に傍線]と殆どおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示してゐるのだと思ふ。
一四 たな[#「たな」に傍線]と言ふ語
漢風習合以前のたなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の輪廓は、此でほゞ書けたと思ふ。だが、七月七日といふ日どりは、星祭りの支配を受けてゐるのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」と言うてゐる、季節の交叉点に行うたゆきあひ祭り[#「ゆきあひ祭り」に傍線]であつたらしい。
初春の祭りに、唯一度おとづれたぎりの遠つ神が、屡《しばしば》来臨する様になつた。此は、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じてゐた為もある。ゆきあひ祭り[#「ゆきあひ祭り」に傍線]を重く見るのも、其である。春と夏とのゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]に行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れた事は考へられる。鎮花祭については、別に言ふをりもあらう。唯、木の花の散ることの遅速によつて、稲の花及び稔りの前兆と考へ、出来るだけ躊躇《ヤスラ》はせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬ様にとするものと考へられた。其と同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考へた。だから、田の稲虫と共に村人に来る疫病は、逐はるべきものとなつた。春祭りの「春田打ち」の繰り返しの様な行事が、段々疫神送りの様な形になつた。
一五 夏の祭り
七夕祭りの内容を小別けして見ると、鎮花祭の後すぐに続く卯月八日の花祭り、五月に入つての端午の節供や田植ゑから、御霊・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓へ・盂蘭盆までに跨つてゐる。夏の行事の総勘定のやうな祭りである。
柳田先生の言はれた様に、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であつた。恐らくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得る為の成女戒を享けたらしい日である。田の作物を中心とする時代になつて、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植ゑにあるとするに到つた。其で、田植ゑの為の山入りの様な形を採つた。此で今年の早処女となる神女が定まる。男も大方同じ頃から物忌み生活に入る。成年戒を今年授からうとする者共は固より、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨の候の謹身《ツヽミ》であるから「ながめ忌み」とも「雨《アマ》づゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言ふやうになつた。
此ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]に入つた標《シルシ》は、宮廷貴族の家長の行うたみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]や、天の羽衣様の物をつける事であつた。後代には、常もとりかく[#「とりかく」に傍点]様になつたが、此は田植ゑのはじまるまでの事で、愈早苗をとり出す様になると、此物忌みのひも[#「ひも」に傍線]は解き去られて、完全に、神としてのふるまひが許される。其までの長雨忌《ナガメイ》みの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌はれた繋《カイ》・絆《ホダシ》(すべて、ふもだし[#「ふもだし」に傍線])の役目をするのが、ひも[#「ひも」に傍線]であつた。かう言ふ若い神たちには、中心となる神があつた。此等眷属を引き連れて来て、田植ゑのすむまで居て、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]を饗《ウ》けて還る。此群行の神は皆簑を着て、笠に顔を隠してゐた。謂はゞ昔考へたおに[#「おに」に傍線]の姿なのである。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「民族 第二巻第六号」
1927(昭和2年)年9月
「民族 第三巻第二号」
1928(昭和3年)年1月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※平仮名のルビは校訂者がつけたものである旨が、底本の凡例に記載されています。
※「媛」と「姫」の混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年1月24日作成
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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