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三津郷……大穴持命の御子|阿遅須枳高日子《アヂスキタカヒコ》命……大神|夢《ユメ》に願《ネ》ぎ給はく「御子の哭く由を告《ノ》れ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞《コト》通《カヨ》ふと見ましき。かれ寤めて問ひ給ひしかば、爾時《ソノトキ》に「御津《ミアサキ》」と申しき。その時何処を然言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖《ミオヤ》の前を立去於坐《タチサリニイデマ》して、石川渡り、阪の上に至り留り、此処と申しき。その時、其津の水沼於《ミヌマイデ》(?)而《テ》、御身|沐浴《ソヽ》ぎ坐《マ》しき。故、国造の神吉事《カムヨゴト》奏して朝廷に参向ふ時、其水沼|出而《イデヽ》用ゐ初むるなり。
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出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。此条は、此本のあちこちに散らばつたあぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であつた様だ。恐らく、国造代替り又は、毎年の禊ぎを行ふ時に唱へたものであらうと思ふ。禊ぎの習慣の由来として、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現を言ふ条があり、実際にも、みぬま[#「みぬま」に傍線]がはたらいたものと見られる。
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