りと詞《ゴト》をもて宣《ノ》れ。かくのらば、……」――朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言ふと、こゝで中止して、秘密の天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に移るのである。此天つ祝詞にさうした産湯の事が含まれて居たらしい事は、反正天皇の産湯の旧事に、丹比《タヂヒ》[#(ノ)]色鳴《シコメ》[#(ノ)]宿禰が天神寿詞を奏したと伝へてゐる。貴種の出現は、出産も、登極も一つであつた。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられて行つて、さうした部分が脱落して行つたものらしい。
けれども中臣が奏する寿詞にも、さうしたみふ[#「みふ」に傍線]類似の者の顕れた事は、天子の祓へなる節折《よを》りに、由来不明の中臣女《ナカトミメ》の奉仕した事からも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓への聖水即産湯とが、古くは更に緊密に繋つてゐて、其に仕へるにふ神[#「にふ神」に傍線]役をした巫女であつたと考へる事は、見当違ひではないらしい。丹比《タヂヒ》氏の伝へや、其から出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いてゐるらしい。二股船を池に浮べた話・宗像三女神の示現などは、出雲風土記のあぢすきたかひこの神[#「あぢすきたかひこの神」に傍線]・垂仁のほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]などに通じてゐる。だから、みつはわけ天皇[#「みつはわけ天皇」に傍線]にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝つて居た事が推定出来る。

     六 比沼山がひぬま山[#「ひぬま山」に傍線]であること

みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]は一語であるが、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の、みつは[#「みつは」に傍線]も、一つものと見てよい。「罔象女」と言ふ支那風の字面は、此丹比神に一種の妖怪性を見てゐたのである。又此女性の神名は、男性の神名おかみ[#「おかみ」に傍線]に対照して用ゐられてゐる。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、女性の蛇又は、水中のある動物と考へて居た事は確からしい。大和を中心とした神の考へ方からは、おかみ[#「おかみ」に傍線]・みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]皆山谷の精霊らしく見える。が、もつと広く海川に就て考へてよいはずである。
龍に対するおかみ[#「おかみ」に傍線]、罔象に当るみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の呪水の神と考へられた証拠は、神武紀に「水神を厳《イツ》[#(ノ)]罔象女《ミツハノメ》となす」とあるのでも訣る。だが大体に記・紀に見えるみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、禊ぎに関係なく、女神の尿又は涙に成つたとして居る。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあつたかも知れぬと思はれるのは、穢れから出て居る事である。
阿波の国美馬郡の「美都波迺売神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]と、みつは[#「みつは」に傍線]・みぬま[#「みぬま」に傍線]の一つものなる事を示してゐる。美馬の郡名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]或はみつま[#「みつま」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]と音価の動揺してゐたらしい地名である。地名も神の名から出たに違ひない。「のめ」と言ふ接尾語が気になるが、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]・おほみやのめ[#「おほみやのめ」に傍線]など……のめ[#「……のめ」に傍線]と言ふのは、女性の精霊らしい感じを持つた語である。神と言ふよりも、一段低く見てゐるやうである。みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめ[#「のめ」に傍線]を添へたしかつめらしい[#「しかつめらしい」に傍点]称へをとつたのであらう。摂津の西境一帯の海岸は、数里に亘つて、みぬめの浦[#「みぬめの浦」に傍線](又は、みるめ)と称へられてゐた。此処には※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》神社があつて、みぬめ[#「みぬめ」に傍線]は神の名であつた。前に述べた筑後の水沼君の祀つた宗像三女神は、天真名井のうけひ[#「うけひ」に傍線]に現れたのである。だから、禊ぎの神と言ふ方面もあつたと思ふ。が、恐らくは、みぬま[#「みぬま」に傍線]・宗像は早く習合せられた別神であつたらしい。
丹後風土記逸文の「比沼山」の事。ひちの郷[#「ひちの郷」に傍線]に近いから、山の名も比治山《ヒヂヤマ》と定められてしまうてゐる。丹波の道主[#(ノ)]貴《ムチ》を言ふのに、ひぬま[#「ひぬま」に傍線](氷沼)の……と言ふ風の修飾を置くからと見ると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]の地名は、古くあつたので
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