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三津郷……大穴持命の御子|阿遅須枳高日子《アヂスキタカヒコ》命……大神|夢《ユメ》に願《ネ》ぎ給はく「御子の哭く由を告《ノ》れ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞《コト》通《カヨ》ふと見ましき。かれ寤めて問ひ給ひしかば、爾時《ソノトキ》に「御津《ミアサキ》」と申しき。その時何処を然言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖《ミオヤ》の前を立去於坐《タチサリニイデマ》して、石川渡り、阪の上に至り留り、此処と申しき。その時、其津の水沼於《ミヌマイデ》(?)而《テ》、御身|沐浴《ソヽ》ぎ坐《マ》しき。故、国造の神吉事《カムヨゴト》奏して朝廷に参向ふ時、其水沼|出而《イデヽ》用ゐ初むるなり。
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出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。此条は、此本のあちこちに散らばつたあぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であつた様だ。恐らく、国造代替り又は、毎年の禊ぎを行ふ時に唱へたものであらうと思ふ。禊ぎの習慣の由来として、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現を言ふ条があり、実際にも、みぬま[#「みぬま」に傍線]がはたらいたものと見られる。だが、其詞は、神賀詞とは別の物で、あぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]と禊ぎとの関係を説く呪詞だつたのである。其詞章が、断篇式に神賀詞にも這入つて行つて、みぬま[#「みぬま」に傍線]及び関係深い白鳥の生き御調がわり込んで来たものであるらしい。
水沼間・水沼・弥努波(又は、婆)と三様に、出雲文献に出てゐるから、「水汲」と訂すのは考へ物である。後世の考へから直されねばならぬ程、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持つてゐるのだ。人間に似たものゝ様に伝へられて居たのだ。此風土記の上《たてまつ》られた天平五年には、其信仰伝承が衰微して居たのであらう。だから儀式の現状を説く古の口述が、或は禊ぎの為の水たまり[#「水たまり」に傍点]を聯想するまでになつてゐたのかも知れぬ。勿論みぬま[#「みぬま」に傍線]なる者の現れる事実などは、伝説化して了うて居たであらう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつま[#「みつま」に傍線]の「みつ」を含み、或は三沢(後藤さん説)にみぬ[#「みぬ」に傍線](沢をぬ[#「ぬ」に傍線]・ぬま[#「ぬま」に傍線]と訓じたと見て)の義があつたものと見る方がよいかも知れない。でないと
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