ばならぬほど、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持っているのだ。人間に似たもののように伝えられていたのだ。この風土記の上《たてまつ》られた天平五年には、その信仰伝承が衰微していたのであろう。だから儀式の現状を説く古《いにしえ》の口述が、あるいは禊ぎのための水たまり[#「水たまり」に傍点]を聯想するまでになっていたのかも知れぬ。もちろんみぬま[#「みぬま」に傍線]なる者の現れる事実などは、伝説化してしもうていたであろう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつま[#「みつま」に傍線]の「みつ」を含み、あるいは三沢(後藤さん説)にみぬ[#「みぬ」に傍線](沢をぬ[#「ぬ」に傍線]・ぬま[#「ぬま」に傍線]と訓じたと見て)の義があったものと見る方がよいかも知れない。でないと、あぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]を学んでする国造の禊ぎに、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現する本縁の説かれていないことになる。「つ」と「ぬ」との地名関係も「つ」から「さは」に変化するのよりは自然である。
四 筑紫の水沼氏
筑後|三瀦《みぬま》郡は、古い水沼氏の根拠地であった。この名を称えた氏は、幾流もあったようである。宗像《むなかた》三女神を祀った家は、その君姓の者と伝えているが、後々は混乱しているであろう。宗像神に事《つか》えるがゆえに、水沼氏を称したのもあるようである。この三女神は、分布の広い神であるが、性格の類似から異神の習合せられたのも多いのである。宇佐から宗像、それから三瀦というふうに、この神の信仰はひろがったと見るのが、今のところ、正しいであろう。だが、三瀦の地で始めて、この家名ができたと見ることはできない。
それよりも早く神の名のみぬま[#「みぬま」に傍線]があったのである。宗像三女神が名高くなったのは鐘が岬を中心にした航路(私は海の中道《なかみち》に対して、海北の道中が、これだと考えている)にいて、敬拝する者を護ったからのことと思う。水沼神主の信仰が似た形を持ったがために、宗像神に習合しなかったとは言えぬ。そういうことの考えられるほど、みぬま神[#「みぬま神」に傍線]は、古くから広く行きわたっていたのである。三瀦の地名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]・みむま[#「みむま」に傍線](倭名鈔)・みつま[#「みつま」に傍線]など、時代によって、発音が変っている。だが全体と
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