知流《コノハナチル》比売」に婚《ア》うたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめ[#「このはなちるひめ」に傍線]も、さくやひめ[#「さくやひめ」に傍線]とほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。

     一四 たな[#「たな」に傍線]という語

 漢風習合以前のたなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の輪廓は、これでほぼ書けたと思う。だが、七月七日という日どりは、星祭りの支配を受けているのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」と言うている、季節の交叉点に行《おこの》うたゆきあい祭り[#「ゆきあい祭り」に傍線]であったらしい。
 初春の祭りに、ただ一度おとずれたぎりの遠つ神が、しばしば来臨するようになった。これは、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じていたためもある。ゆきあい祭り[#「ゆきあい祭り」に傍線]を重く見るのも、それである。春と夏とのゆきあい[#「ゆきあい」に傍線]に行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れたことは考えられる。鎮花祭については、別に言うおりもあろう。ただ、木の花の散ることの遅速によって、稲の花および稔りの前兆と考え、できるだけ躊躇《ヤスラ》わせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬようにとするものと考えられた。それと同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考えた。だから、田の稲虫とともに村人に来る疫病は、逐《お》わるべきものとなった。春祭りの「春田打ち」の繰り返しのような行事が、だんだん疫神送りのような形になった。

     一五 夏の祭り

 七夕祭りの内容を小別《こわ》けしてみると、鎮花祭の後すぐに続く卯月《うづき》八日の花祭り、五月に入っての端午の節供《せっく》や田植えから、御霊《ごりょう》・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓え・盂蘭盆《うらぼん》までに跨っている。夏の行事の総勘定のような祭りである。
 柳田先生の言われたように、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であった。おそらくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得るための成女戒をうけたらしい日である。田の作物を中心とする時代になって、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植えにあるとするに到った。それで、田植えのた
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