おほゝどのみこ」に傍線]の家に出た水の女の兄媛・弟媛だったことを示すのだ。
だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としている。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなって、かならずしも飛鳥の岡の地に限らなかったことを見せる。ふぢ[#「ふぢ」に傍線]はふち[#「ふち」に傍線]と一つで「淵《フチ》」と固定して残った古語である。かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]の親は、山背[#(ノ)]大国[#(ノ)]不遅(記には、大国之淵)であった。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神[#「ふかぶちのみづやればなの神」に傍線]・しこぶち[#「しこぶち」に傍線]などから貴《ムチ》・尊《ムチ》なども、水神に絡んだ名前らしく思われる。神聖な泉があれば、そこには、ふち[#「ふち」に傍線]のいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはら[#「ふちはら」に傍線]と言うたのであろう。
みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]のみづ[#「みづ」に傍線]は瑞《ミヅ》と考えられそうである。だが、それよりもまだ原義がある。このみづ[#「みづ」に傍線]は「水」という語の語原を示している。聖水に限った名から、日常の飲料をすら「みづ」と言うようになった。聖水を言う以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限ってより来る水を言うたらしい。満潮に言うみつ[#「みつ」に傍線]も、その動詞化したものであろう。だから、常世波《トコヨナミ》として岸により、川を溯《さかのぼ》り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつ/\し[#「みつ/\し」に傍線]は、このみづ[#「みづ」に傍線]をあびたものの顔から姿に言う語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしているなどと分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うたところから拡がったものであろう。満潮時をば、人の生れる時と考えるのも、常世から魂のより来ると考えたためであるらしい。みつぬかしは[#「みつぬかしは」に傍線](三角柏・御綱柏)や、みづき[#「みづき」に傍線]と通称せられるいろいろの木も、禊ぎに用いた植物で、海のあなたから流れよって、根をおろしたと信じられていたものらしい。
みつ[#「みつ」に傍線]はまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである
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