」に傍線]からみふべ[#「みふべ」に傍線]・みぶ[#「みぶ」に傍線]と音の転じたことも考えてよい。
 産湯から育《はぐく》みのことに与《あずか》る壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌《そそ》ぐ役を奉仕していたらしい。これが、御名代部《みなしろべ》の一成因であった。壬生部の中心が、氏の長《おさ》の近親の女であったことも確かである。こうして出現した貴種の若子《わくご》は、後にその女と婚することになったのが、古い形らしい。水辺または水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛《たまよりひめ》の名を伝えるのは、皆この類である。祖《オヤ》(母)神に対して、乳母神《オモカミ》をば[#「をば」に傍線](小母)と言ったところから、母方の叔母すなわち、父から見た妻《メ》の弟《ト》という語ができた。これがまた、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。
 大嘗の中臣天神寿詞《なかとみのあまつかみのよごと》は、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いているが、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]甦生《そせい》の呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があったのであろう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞《ノリト》の太のりと詞《ゴト》をもて宣《ノ》れ。かくのらば、……」――朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言うと、ここで中止して、秘密の天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に移るのである。この天つ祝詞にそうした産湯のことが含まれていたらしいことは、反正天皇の産湯の旧事に、丹比《タヂヒ》[#(ノ)]色鳴《シコメ》[#(ノ)]宿禰が天神寿詞を奏したと伝えている。貴種の出現は、出産も、登極《とうきょく》も一つであった。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられていって、そうした部分が脱落していったものらしい。
 けれども中臣が奏する寿詞にも、そうしたみふ[#「みふ」に傍線]類似の者の顕れたことは、天子の祓えなる節折《よお》りに、由来不明の中臣女《ナカトミメ》の奉仕したことからも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓えの聖水すなわち産湯とが、古くはさらに緊密に繋《つなが》っていて、それに仕えるにふ神[#「にふ神」に傍線]役をした巫女であったと考えることは、見当違いではないらしい。丹比《タヂヒ》氏の伝えや、それから出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事
前へ 次へ
全26ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング