から遠い田舎にさすらうて来て、苦しんで生きてゐるといふことを、行きずりの同情者が歌ひ、麻績王が答へてゐる。
さういふ事柄は、他にもいろ/\沢山ございまして、平安朝に入つてもありますし、又奈良朝以前に遡つてもありました。そのうち今日問題にしたいのは、それが男の貴い人、或は女の貴い人、どつちかゞ流されて行く。或は自分自身で、流れて行つてゐる――さすらふ[#「さすらふ」に傍点]といふ風な形で、中でも一番均等に行つてゐるのは、允恭天皇の皇子の木梨軽皇子、それからその妹の軽大郎皇女、この二方が、一腹一生の兄妹なのに夫婦の契をしたといふことが、神意によつて現れて、それで皇女が伊予国に流された。これが日本紀の伝へです。古事記の方では、太子流されて伊予に行く。後からその皇女が跡を尾うて行かれた。これがいはゆる道行といふ、旅行のある理由なのですけれども。その途、或は以外でも出来ました歌の一部分が「天田振《アマタブリ》」といつて伝はつてをつて、非常にあはれな歌である。天田振ばかりではありません。その外の「歌群」の中にも、皇子・皇女の歌が入つてをります。我々はどんなに祖先を尊敬してゐるにしても、この時代の祖先が、まさか此程「物のあはれ」は、知つては居なかつたらうと思はれる程、あはれな歌を作られてをります。
かう言ふ歌を謡ふ人、其を聴くことによつて、祖先達のあはれを知る心が育まれて来たことは事実でせう。古代と言へば、一も二もなく信じなくなつたが、さう軽蔑は出来ないものです。さういふ風に、日本紀と古事記では伝へが一寸違ふ。
ところが女性の側の伝へといふのも、又色々な風に沢山ある。
仁徳天皇の皇后の磐[#(ノ)]姫といふ方は大変嫉妬の激しい方で、その嫉妬の表現といふものは或は今日古事記を見ますといふと、如何にも其自身文学だと謂つた感動を受けます。嫉妬の文学的だといふことは、今では喜ばれることではありませんけれども、あれはあゝいふ文学的になつて来なければならぬ理由があつて、あんなに力強い表現をしてをつたのでせう。つまり女の怒りを鎮めるための歌といふものが発達して、其「女怒り」の代表者としての磐姫皇后が存在することになつた訣です。それはやはり万葉集にも出て来てをります。所が万葉では一部分は、既に申しました軽皇女の歌になつてをります。軽皇女の歌か、磐姫の歌か、万葉と古事記、日本紀では、どちらへもきめてしまふ訣には行かなくなつた次第なのです。それでこの皇后が紀伊国に大嘗《オホムベ》に使ふ、柏の葉をとりに行つた帰りに宮中に新しい女性を召されたといふことを聞いて怒つて、そのまゝ今の淀川を遡つて、山城に入つて、木津川を更に遡つて行かれたといふことになつてをります。古事記と日本紀では、これ亦表現が違ひまして、日本紀は還らず、大倭葛城の故郷に帰られ、古事記の方は途中から引き返して来られたやうです。山城では珍しくも、蚕を飼つてゐる者の家に暫らく居られたことになつてゐる。これはやはり女性のさすらひの旅なのです。女の流離の物語、磐姫の場合は、たゞ威勢よい「うはなり嫉み」の物語だと思つて来ましたから、或はそれをさすらひのあはれな旅だと思ひませんけれども、やはり貴種流離の要素は持つてゐるのです。
ずつとさがりまして、天武天皇の時にちようど似た立ち場の皇女が二人、見えてゐます。一人は、大伯皇女。大津皇子といふ男性の兄弟が殺されたのでその墓へ行かれました。その道の叙述は、万葉では飛び/\に僅かの歌で述べるのですから道の叙述は分りませんが、恰も道の旅を考へることが出来るやうになつてをります。それと同じやうな位置の十市皇女といふ方は、自分の夫である所の弘文天皇崩御の後に、伊勢斎宮に参られる、その途で名高い「河上《かはのへ》の五百箇磐群」の歌が――御自分の作ではないが――出来ます。その刀自の自発的に作つた歌と言ふことになつてゐますが、万葉の、誰某の作だとか言ふ意味は、いろ/\考へて見なければならない問題だと思ひますが、まあさういふ風に書いてをります。これも女の旅なんです。さうしてこの方には、更に都に帰つて宮中で俄かに死なれたといふやうな、小説的に考へれば小説的にも考へられ、そんな風に考へるのがいけないと言へば、もつと平凡にも考へられるやうな死に方をしてをられます。貴い女性がさういふ風に旅にさすらふといふ話を、沢山集めれば集められるのです。男ばかりが旅をしてゐるわけではない。女の人も旅をしてゐる。併しそれはずつと後世の事とする考へ方がある。日本の女の人はどこにも出ない。家をも出ないと考へて来てゐる。平安朝時代の貴族の女性は、自分のゐる室すらも出ないものとなつてゐる。さういふ生活が続いてをりますから、男兄弟と女姉妹とは他人見たいで、顔を見たら、女と男だから恋愛の心が起つたりする。だから平安時代の系統を引いた恋愛物には、男と女の兄妹及び、肉親の愛のもつれを扱ふものが出て来る訣です。
さういふ風に、女の人は陽の目も見ないと言ひますが、本当に陽の目も見ないやうな、部屋に生活をしてをつた。尤も日本では本当のことかどうか知りませんが、ふれいざあ[#「ふれいざあ」に傍線]教授のごうるでん・ばう[#「ごうるでん・ばう」に傍線]を見ますと、日本の天子は地上に足をつけない。顔も日にさらして外出せない。尤も地や、外光が天子の威光を吸ひ込んでしまふからだといふやうなことを書いてをりますが、併しそれも種のないことではない。さういふことを、日本に来た外国人が聞いて書いた。まさかそこまで伝説化してもゐないでせうけれども、さういふ風に、宮廷その他の神事に仕へる人たちは、禁忌を守つてゐたに違ひない。さういふ風に神事の生活をしてゐる所では、非常な謹慎の生活をしてをりますために家庭にをつてもなか/\陽にあたらない。いはゆるあめのみかげ[#「あめのみかげ」に傍線]、ひのみかげ[#「ひのみかげ」に傍線]といふ言葉がそれを示してゐるのです。宮殿の屋根が天日の陰となつて、神秘な人の威力の逸出を防ぐことなのでした。さういふ家の暮しがある。だから女の人は男性の家族から、顔も知られないでゐる。さういふ女の人が沢山ゐる。そんな女性の、宗教的な聖職にある人が、長い道を旅行して行くといふやうなことは考へられないことなんですね。本当か嘘かといふ気がします。幾ら本当にありましても、怪しまなければならぬ程沢山の伝へがある。沢山あつた所でそれが真実だといふことにはならぬ。即ち一つの信仰をばずつと長い間日本の国で貫いて持つてゐるのですから、その信仰を以て旅をしないでも、信仰の旅をする女の人を考へる事は出来る訣です。そこに伝説は幾らでも出来て来ます。さういふことが伝へにありましても、恐らく遠い旅の空想が、女宗教人の上には纏綿して居たのでせう。
天子の御即位の後、新しく立つた斎宮は、伊勢まで長い道をば「群行」と言ひまして、行列を作つて……、神々の行列に準《なぞら》へて見ればわかりますが、旅に出られます。さうして伊勢に行くまで倭姫皇女が昔通られた通りの道筋を古い儀式によつて行かれました。かういふことは事実である。空想ではない、夢ではない、現実です。それですからないことゝは言へませんけれども、或はかういふことは十分よく考へて見なければならないことかも知れない。昔神の世からかういふことをしてをつたから、我々の時代にも、さうしたことを行はうといふことになつて、初めた儀礼がないとも言はれません。
万葉集を見ますと、女の人の旅のことも沢山出て来たり、人の中に入つて旅をするといふこともあるし、一人旅をする女のこともあります。ともかくいろ/\な旅があります。それをあなた方の考へる旅とはお認めにならないかも知れませんが、女の人が家出をする話……。昔の女の旅には目的が考へられない。万葉時代の女の人の旅には目的がそんな風にはつきりきまつてはゐない。きまつてゐないと言ふと悪いのでせう。目的は恐らく死ぬるための旅でせう。家を出て行くといふことは、亡命です。女の亡命は、其女性の死を意味するものです。死ぬるための旅と言つていゝでせう。古代女性が家をさすらひ出るといふやうな種類の物語、歌を中心とした物語が相当見えてをります。場合によると、その当事者の作つた歌、死なれた後に残つた男達が作つた歌、そんな風な形で残つてをります。或はさういふ語り伝へがあつて、昔のそれを思ふと昔が恋しいといふやうな、旅行者の作物もあります。
万葉集で名高いのが、真間の手児奈、まう一つは、摂津の蘆[#(ノ)]屋の海岸にをつた女ですから、蘆屋の菟会《ウナヒ》(うなひ[#「うなひ」に傍点]は海岸の義)処女と言ふのですが、この二人のことは幾通りかの長歌、短歌になつて伝はつてをります。その他では、万葉集の巻十六にあります桜[#(ノ)]児、鬘[#(ノ)]児といふ女が、やはり男の競争者を避けて山に入つて木からさがつて死ぬ。或は死場所を求めて池へはまつて死んでしまふといふやうな死に方をしたことを伝へてをります。さう言ふのが非常に沢山あるわけです。さう言ふ木や水で死ぬのは、躰を傷け、血を落《アヤ》さぬ死に方で、禁忌を犯さぬ自殺法なのです。我々はこれは簡単に今まで考へてをります。日本の古代女性には、其職掌上、結婚を避ける女があつた。日本の女のすべてが、必ずしもこの世で結婚するために生れて来てゐない。結婚よりももつと先の条件があるのです。何であるかといふと、神に仕へるのです。人間として、人間の女としては神に仕へることが先決問題で、その次に結婚問題が起つて来る。だから一番優れた女の為事といふものは、神に仕へることである。かう考へてをつたことは事実でせう。事実といふよりさう考へてをつた人達が、昔はをつたといふことをば、後の人々も、多く信じてゐる。さう考へてゐるから、つまり沢山の美しい処女達が死んで行くといふ伝へを継承してをつた。で、真間の手児奈の歌でも、或は蘆屋の菟会処女の歌でも幾通りもありますが、並べて見ますと、作者にもよりませうし、或はそれの出来た時代もありませうし、やはり表現がいろ/\違ひます。真間の手児奈の歌でも、「古に在りけむ人の しづはたの帯解き交《カ》へて、廬屋《フセヤ》立て 妻問ひしけむ云々」といふやうな言葉があるのを見ると、これは真間の手児奈がすでに男性を持つたといふことを、表してゐるやうに思はれる。真間の手児奈は、男を持たないで死んだ処女だとばかり従来は解して来たけれども、「昔をつた人が倭文《シドリ》の帯を解き交換して、そこに迎へるために、婚舎としての廬屋を立てて妻問ひした」といふやうなことが歌つてあるのですと、これはどうも、この表現の仕方は結婚したといふことになる。さうするとどうも、すつかり異なる範疇に属するものと見て来た、安房のすゑ[#「すゑ」に傍点]の珠名に近づいてゐる。他のものは皆さうではない。中に非常に民謡的なものがあるかと思ふと、まう少し進んで来て、本当に手児奈が居つたと信じ、手児奈をばまるで聖処女みたいに見上げて歌を作つてゐる。菟会処女の歌なんかでも、その文章通り解釈すればいよ/\死ぬ時に、その母に死にゝ行かなければならぬわけをいうて死にます。夢のやうな叙述だけれども、彫りの浅い描写をしてゐるのが常の叙事詩を、ある部分だけはつきり言ふと、漠然とした処が大きくなつて出て来る。恐らく模倣の上に、個人的な理会を加へて来るから、一つ/\では、余程かはるのです。大伴家持の歌もさういふ風に作つてゐる。我々には、親の了会を得て死にゝ行くといふことは考へられませんので、さういふ風に解釈しないやうに/\してゐますけれど、さういふことがあつたことも考へてよいのです。宗教的な信仰の形式によつて死ぬるのは、親も止めることは出来ません。それで驚きますことは、たいへん時代が違つてをかしい話だとお思ひでせうが、「堀川」といふ浄瑠璃を見ますと、お俊と伝兵衛がこれから心中に行くといふことをはつきり言つてゐるのに、母親や兄がそれを止めない。どうしても死ぬものなら死ぬで仕方がない。もし生きてゐられたら生きてゐてくれといふやうな考へ方
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