真間・蘆屋の昔がたり
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一層《いつそ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ごつた[#「ごつた」に傍点]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)磐[#(ノ)]姫

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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この国学院大学の前身の国学院、及び国学院大学で、私ども万葉集を習ひました。その時分ちようど、木村正辞先生といふ、近世での万葉学者がをられまして、私ども教へて頂きました。
その外に、畠山健先生が、万葉集を教へてをられました。木村先生といふのは、旧時代から名高い万葉学者で、謂はゞ正しい伝統を持つた方です。畠山先生は万葉やら、源氏やら、徒然草やら、宇治拾遺やら、いろ/\なものを教へて下さいました。だから当時の大学予科生なる私どもは、畠山先生の万葉集を教はることが残念に思はれました。高等師範部の前身の師範部の方に、木村先生の時間がありまして、師範部の方が、よい待遇を受けてゐるやうな気がして、師範部の時間を盗み聴きに行きました。けれども、年を取つてをられまして、昔の評判と、実際とは相当違ふといふやうな感じを、僣越ながら受けまして。所が、畠山健先生の万葉講義といふのは素晴らしいいい講義だつたので、大変我々万葉学の刺戟を受けまして、やはりかうして教へて下さるだけに、それだけの深い用意があつたのだといふことをば始めてつく/″\と知つたことでした。もうその先生たちも皆亡くなられて、お墓々々も冷えきつてゐます。さうして、今では亦、私の受けた印象などになかつた事のやうに、木村先生が、江戸持ち越しの万葉学の権威のやうな形に考へをさめられてゐます。其は其として、よい事なのです。かういふ話をしておくのも、それらの先生の供養にも、国学院大学の歴史の補ひにもなるかと思つて申上げてゐるわけですが、よく考へて見ますと、実際古典を専門にしてまゐりました我々の国学院でありますが、この国学院で本道に万葉を専門にしてをられた人を名ざしする段になると、容易なことではありません。木村先生に習ひましたけれども、もう先生の万葉には我々若干あき足らぬ気持を感じた位で、その外には、外の文科系統の文献の専門家は沢山いらつしやいましたが、万葉の専門家は木村先生を除けば一人もをられなかつた。だから我々は何とか万葉の本道の先生を得たい。この他に更に、さう言ふ先生を得たいといふやうな欲に燃えてをりました。その望みもとう/\達することが出来ずじまひになりました。恐らく武田君も少し遅れて這入つて来たのですから、或はその木村先生につかずにしまつたかも知れません。武田君への先生の伝統、これは、万葉学では、大事の事ですから、よく調べておきます。我々二人は万葉をば専門にして来たけれども、万葉の学者としては非常に不幸で、本筋の万葉学の伝統には、若い時代には、触れてをらないといふことにならうかと思ひます。木村正辞先生をある点まで無視したやうな話で、誠に申し訳ない事になりますが、――そんな有様なのでした。肝腎の国学院がそれですから、まあ世間の万葉学といふものも、筋を考へる段になると、大体おしはかることが出来ます。その後、明治三十年代を通つて、四十年代に入ると、世の中に、万葉学が非常に進んで参りました。
一つは正岡子規の門流の万葉ぶりの歌の方に、力が増して来まして、――万葉文学の本流と申しますか、そちらから非常に潮が満ちて来ました。それから戦争時代になりまして、やつと近頃、戦争後もう万葉一途の時代でもあるまい、源氏物語をそろ/\出して見ようではないかといふやうな考への起つて来まして、源氏学興隆の時が来ました。それで万葉と源氏の並立時代といふやうな有様になつて来ました。けれども、だがまだ/\万葉を探求しないでは、万葉の持つてゐる問題が、そのまゝ残る。今におき、我々の解決し切れない問題は、早晩貴方方にお任せしなければならないものとして、沢山残つてゐると思ひます。こんなに懸案を残して去るといふことは、それだけ、我々が無力で、不勉強であつたといふことになります。併し、源氏と申しますものゝ源氏にだつて万葉的要素が沢山ございます。我々は万葉と源氏との間、もつと平たく申しますと、奈良朝及び其前と、それから平安朝とのその間の聯絡といふことは、殆んど考へずにまゐつたので、この二つの聯絡をば何とか考へて行く者が、今後の学界に現れて、著しい、為事も残して行くことになるのだと信じて居ります。さうでなくても、古い言葉で解くことの出来ないものが、随分そのまゝになつてをります。源氏その他のものには出て来るけれども、記紀万葉の世界には出て来ない、併し、その言
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