、我々の持つてゐる神様のある大きな部分までは、何の説明も出来ないで、間違ひだと放置してしまふことなのです。それを我々が考へて行きますと、例へばあいぬ[#「あいぬ」に傍線]の熊を殺して祭る熊祭りがあります。よその人間は非常に残酷だと考へますけれども、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]人には熊自身の感情も訣つてゐるのです。死ねば天に昇つて神に生れ変るのだと思つてゐる。さう信じて殺すわけなんです。これは日本と比較研究すべきことなのか、日本の信仰があいぬ[#「あいぬ」に傍線]の社会に移つて行つたのか、簡単に言ふことは出来ませんけれども、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]とは種族において全然違つてゐるにも拘らず、信仰の上に非常に似た所があるといふことは事実です。これは偶然の暗合なのか、それとも当然の理由があるのか考へなければなりません。
他界の生物がこの世界を訪れて来るのは、この世界に来ることによつて、再び他界に帰つたとき、立派な神になることが出来る。かぐや姫も犯しがあつて日本の地へ来たが、それが償はれたから帰へるのだといふことを言つてをりますけれども、その理由は誰も説明出来ないから、天から来るには皆何か失敗してやつて来てゐるやうなことになつてしまつてゐます。何のために失敗をしたのか、失敗はどうして償へるのかといふことの説明なしに済ましてゐる。
先に申しました万葉に出てくる、死んでゆくをとめ達の伝へにしても、本当にさうして死んだのだと思ふ人はないでせう。偶然死んだこともあるでせうけれども、あゝした歌は本当に死んだことを見て作られたものではないでせう。死んだといふ事実よりも、もつと大事な、もつと有力な、つまり昔からの伝へ、伝説といふものが力強く行はれてをつたわけです。それを伝へる土地々々によつて、桜[#(ノ)]児であり、あるところでは鬘[#(ノ)]児であり、真間の手児奈であり、思ひきつて天津処女になるといふ形をとつて、ところ/″\で違つて来るわけです。それが皆死んだといふことは、巫女が、神の外は、男を避けるといふ神道的の普通の解釈の上に、まう一つ古い解釈がなければならないのでせう。つまり「をぐな」とか「をとめ」とか言はれるやうな年齢の者が、生れて直ぐ死んで行く。
それでその死んで行く間に少しの旅をしてゐる。つまりそれは、他界からこの世界に来て、この世界で死んで他界に神となつて現れる。その手
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