、顔見世たつた一度でなく、ほかの時にもよんで頂けますやうお願ひ申し上げます。」まあかう言ふ言ひまはしであつた。そんな事にかけてはちつとも神経を動かさぬ京の見物はおもしろさうに「えへら、えへら」笑うてゐた。京のつましい生活を衝いてゐる、極めて無遠慮な、後味のわるい口上だが、言ふ役者も役者なら、聴いてゐて、「うまいことぬかしよる」と、何でもない顔をしてゐる見物も与し易い群衆であつた。外へ出ると暗い河原に鳴く千鳥、堰塞を溢れる水の音、其さへ、記憶といふ程には残つてゐない。其後東京へ移つて、稍久しくなつた頃、――南座の三浦介の舞台でたふれた。――さう東京へは聞えて来た――役者の上を特に想望しての歌としては、動機が、大分薄いやうな気がする。芝居へ連れて行かれて、自分も迷惑せず、人をも困らさなくなつた頃はもう鴈治郎・我当――後、仁左衛門――対立して人気を争うてゐる時期であつた。どうして覚えてゐるのか知らんが、角か弁天座の竪看板に、我当の兄我童の、仁左衛門襲名の披露狂言大和橋の絵組みがあつて、此に向つて、片手をひろげ片手を地面について、驚いた恰好の馬方の袖に右団治――後、斎入――の紋の松かは菱に蔦の
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング