柄ではなかつた。寧、勤めなかつたから、その柄が出来てゐなかつたといふ方が当つてゐる。璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]などでも今では、喜多村氏などが、神様見たいに言ふが、――さう言つて、あの不幸な達人を伝へてやつてくれることはあり難いが、――やはり浜芝居の座頭か、書き出しで、長い腕を磨いて来たので、大芝居の座頭の相談役には此以上の人はないが、芸格は低かつたと思ふ。時蔵と似た輪廓だが、長い座頭の経験が、斎入の顔に、芝居の長者らしい品格を置いてゐた。まことに大阪の芝居錦絵――その物は、美しさの真の準拠とはならぬが――をそのまゝの顔姿であつた。だから大阪の錦絵の持つよさ――と言ふより醜さ――が、そのまゝ彼の舞台姿に出てゐた。月郊さんは、芝居擁護者としての伝統に列つた人だが、あの人一代だけは、どうも東京歌舞妓のよさが、喰ひこんで来て居る。あの人の作や評には、凡心服してゐるが、斎入の容貌評については甘心する事が出来ない。六郎先生などに聞いて、高安家の正しい判断を知りたいと思うてゐる。
我童は、前に姉を失つてゐる。此人も、井戸か何かに這入つて死んでゐる。そこへ、先々代家橘――先代羽左衛門父――を失つた東京劇壇では、彼の上に其幻影を感じて、其身替りに据ゑかけてゐた我童が、姉と同じ病気になつた。その第十一代目仁左衛門の気随気まゝと思はれた生活も、一つは思ひつめない為、随時発散を心がけての気まぐれだつたことを思ふと、其一生に理会がつく。我当は大阪の低い知識の導くまゝに、大和桜井から一里も奥の城島《シキシマ》村まで行つて、「忍阪内ノ陵」――舒明天皇陵――に参つて家兄の平癒を祈つてゐる。だから、私にとつては、仁左衛門について書く方が、当らずとも遠くない見当には這入るのである。毎日新聞と朝日新聞とが、大阪中の家庭を両分して、ひいき争ひをくり返させて居た時代である。鴈治郎・仁左衛門なども、其安易な白石・黒石に立てられたゞけである。だけだ[#「だけだ」に傍点]と言へば、其までゝあるが、我々大阪で若い時を過した者にとつては、だけだ[#「だけだ」に傍点]ではすまないものがある。
日清戦争当時、何を見て過したか、殆、払拭せられた碁盤の面のやうに記憶の痕もなくなつてゐる。ところが唯一つ、花道から走つて出た若い将校の身辺で、幾つかの煙硝火が発火する。今から思へば、舞台に幾筋かの糸が張つてあ
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング