葉がついてゐた。此右団治が役変替を言ひ出したことから、我童狂死、我童びいきの東京の車屋が下阪して、右団治をつけねらつて居ると言つた様な噂まで耳に残つて居る。どこまでが記憶で、何処からが知識のつけ足しやら、今日になつては、甚心もとない。其より少し前、鴈治郎弄花事件と言ふやうな警察事故が起つて、縫物屋通ひの娘たちを驚倒させた。角の芝居と朝日座との間に後、石川呉服店となつた同じ家で、役者の写真を売つて居た。蔀戸をあげ、障子囲ひにした店床を卸した落ちついた家で、手札型の台紙にはつた舞台姿や、豆写真を張りつけた糸巻などが、そこの商品であつた。町々の縫物子が、其を買うては、護り魂のやうに秘めて居たものである。さう言ふ鴈治郎びいきの娘たちが、どんなにかたみ[#「かたみ」に傍点]狭く案じ暮したことだらうと思ふと、昔のあほらしい程ののどかさ[#「のどかさ」に傍点]に笑ひがこみあげて来る。
誰の芝居よりも、右団治一座の狂言によくなじんで居た。此人は、鴈治郎と一座する事が尠く、我当を書き出しに、座頭を勤めたことが続いて後、きつぱり座頭渡しの式をして、我当を押し出した。此は折り目正しい為方だと、今から見れば、そんな何でもない事に感心した世の中だつた。斎入右団治が、そんなさばけたとりしまり[#「とりしまり」に傍点]をしたのも、原因があつた。老齢に向つて、彼の嗜んだ「茶」が、ものを言ひ出した所もあつた。書き物の「石川五右衛門」で、茶の宗匠になつてゐる隠れがの五右衛門を見たが、彼の得意だつた葛籠抜けや、釜煎りの五右衛門よりは、性根をよく表現して、こんな名人が世にあらうかと思はせた。少年期を出たばかりの鑑識を、今更保持する自信も薄くなつたが、ともかくよい役者であつた。高安の老先生が芝居ずきであつた事は聞いてゐたが、近年月郊――老先生の長男――さんの「高安の里?」を読んだら、斎入を認めないやうにとれる文章があつて、私の記憶の為に悲観した。斎入は下品な顔の男であつたと言ふやうに書いてあつたので驚いた。月郊さんは、斎入の顔を一まはり大きくした時蔵――後歌六――と、記憶をふり替へて居られるのではないかと思つた事である。東京でもさうだが、上方でもはつきり、座頭と脇役者とでは格が違ひ、育ちの違ふことを思はせて居た。時蔵は朝日座あたりでは、座頭格に居て、芸も技巧的でおもしろかつたが、中芝居、角芝居の座頭の勤まる
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