熟語構成法から観察した語根論の断簡
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)扨《さて》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)真物|君父《キミ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はしだて[#「はしだて」に傍線]
[#…]:返り点
(例)立[#レ]橋
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まだ/\
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私が単語の組織を分解するのは、単語の研究が実の処、日本の詞章の本質を突きとめて行くことになると思つてゐるからである。語根の屈折に就いて考へるには、先づ熟語に就いて見るのが一つの方法である。其には、語根と熟語の主部と言ふものを考へて見なければならない。茲に山と言ふ言葉があると、其を修飾する言葉がついて熟語が出来る。この主部に関しては、只今は問題にせずに置く。蓋然の儘に残しておいてもさし支へのないものとして、話を進めて行かうと思ふ。
扨《さて》、熟語の中の主部に対して、此に或語根がついて熟語を作つて行く。即語根は、修飾的につく訣である。其つき方は、今日の我々から考へると、古代もやはり今の様に、熟語をつくる修飾語が主部の上に乗りかゝつて居るといふ風に、専《もつぱら》考へられさうである。事実さういふ例も沢山ある。ところが、今一段考へを進めて見ると、古代には、修飾の職分をとる語根が、主部より下に据ゑられた事実が沢山あつたのである。却て、其方が、正式であつたらうと思はれる位である。我々の口頭文章の基礎としての国語は、かうした時代を過ぎて記録せられて来たのであつて、さうした前代の熟語法の痕跡が、文献時代に残つて居つたのである。例へば、梯をはしだて[#「はしだて」に傍線]と言うてゐる。播磨風土記を見ると、俵を積み上げて天に昇る梯を作つた時に、梯のことを立[#レ]橋と書いてゐる。橋は梯である。我々の知つて居る限りでは、はし[#「はし」に傍線]と言へば水平に懸つてゐる橋ばかりを考へるが、昔は渡る或は渡すと言ふ様な場合、即、此方から彼方へと二つの場所を繋ぐものは総てはし[#「はし」に傍線]で、垂直的のものをもはし[#「はし」に傍線]と言うたのである。其を立[#レ]橋と言ひ、これを名詞とした場合にははしだて[#「はしだて」に傍線]と言つて居る。此を我々の文法意識から言へば、たてはし[#「たてはし」に傍線](竪橋)といふはずのものであるが、此を橋の立つた物と理会してはならないものなのである。
次の例は、大和に於ける地名例が文献的には一番古いが、山城或は其他の各地にも、或は又普通名詞のやうにも使はれて居るものに、傍丘《カタヲカ》(又、片岡。或はかたをかやま[#「かたをかやま」に傍線])といふ言葉がある。只今の言語情調から言へば、丘の傍の平地の其又傍にある所の其丘、といつた方になるのである。里・野があつて、其処に丘がある訣である。併し、此は現在の理会である。其が後になると、直接丘を指す様になつたので、丘其は傍にある丘、といふ風に、再び丘に還つて来る。それで、傍丘が丘の名で、丘を修飾してゐるのだ、と思つてゐるが、昔の人は今の人と文法意識を等しくするものでないのだから、地或は野など言ふ主部は、暗示に止めておいて訣つた。その為、かうした形をとつたのである。謂はゞ、丘の傍《カタ》の「土地」といふ形でも宜いのである。傍丘は丘の名ではなく、丘の傍といふ事で、今ならば、恐らく不安定を感じる筈の丘傍と同じ意味の言葉であつた。此は、はしだて[#「はしだて」に傍線]とも同形式で、我々なら竪橋と言ふところをはしだて[#「はしだて」に傍線]と言ひ、丘傍を傍丘と言うたのである。をかべ[#「をかべ」に傍線]或はをかび[#「をかび」に傍線]には普通辺を宛てゝ居るが、べ[#「べ」に傍線]・び[#「び」に傍線](又は、み)はほとり[#「ほとり」に傍線]と言ふ事ではないのである。従つて、傍丘を或はもとほり[#「もとほり」に傍点]の丘辺など言ふ語で飜《うつ》すことはいけないので、地名にあるものは、但《ただし》此とは別である。かういふ言葉が文献時代になつても、散列層のやうに介《はさま》つて残つて居るのである。同時に、幾分昔の熟語法の意識が残つてゐて、新時代の熟語法即、修飾語は主部に対して上につかねばならぬ、と言ふことを知り乍らも、昔の文法意識が仄かに働いてゐたことが考へられる。
平安宮廷・貴族の生活上の言葉にしたぐつ[#「したぐつ」に傍線](韈)がある。此を音韻変化して、したうづ[#「したうづ」に傍線]と言うてゐる。此には、昔の熟語を作る意識があつて出来たものであらう。車の前面には簾が垂れてあるが、揚げれば主の顔が見える。其為に簾下がある。其を下簾《シタスダレ》と言うてゐる。我々の熟語法からはちよつと訣りにくい言ひ方だ。謂はゞ簾下なのである。下沓・下簾などいふ語を見ると、沓・簾に熟語の主部があり、下が修飾してゐる様に見えるから、当然の熟語の様に考へられるが、実はさうは言へないのである。した[#「した」に傍線]が下に来るのが本当である。同時に、傍丘の場合の如く、下「なる物」の暗示が、皆に享受せられることゝ予期してゐるのである。此は、新時代の熟語でありながら、昔の熟語法と通じてゐるものがあるのだ。忘却の間歇的復活か、古い方法の遺存してゐるものに学んだのか、此説明は、単純には出来ない様である。此などは、語根が上にある様になつてゐるから、一見新しさうに考へられるが、此熟語法は実は、古いのである。此形は実に沢山あるのであつて、珍しい例をあげた次第ではないのだ。又、現代においても、かうした見地から、精密に方言の古格を存してゐる部分を探せば、類例はまだ/\出て来ると思ふ。殊に、我々の国の周囲民族・種族に於いて、我々と同種の裔族であつて、文献時代前に岐れたものを検断して見ると、其が訣る。沖縄がさうである。朝鮮になると関係が少し複雑になる。沖縄の言葉は、謂はゞ日本の方言に過ぎないことは事実である。唯、非常に早く岐れたものである。我々の先輩同人の考へて居る様に、日本と文法組織が極点まで一致してゐるにしても、様式に差のあることだけは、認めなくてはならぬ。我々の古代・中世の文法組織と異つてゐるものも多いのは、文献時代前に分派して居たからである。だが、ある種の文法や造語法は、全然一致してゐる。日本の文献にも、国語学関係の材料として特殊なものは、さう多くない。其で、日本の国語の為、殊に、古代文法を研究する為には、沖縄語は大事である。これを補助として、俤でも残つてゐる古代国語とつきあはせて、相俟つて一宗形を還元して見るより仕方がない。さうして見ようとすることが、色々な効果を予期させる。其一部の為事として、古い熟語法をも見ようとするのである。
日本の古語と近代の朝鮮語との対比を以てする日鮮語同祖の研究は、他の語族の事より見ても考へられない事だと、金沢博士の説を排撃する学者も多い。併し、其は言ふものが間違つてゐる。民間伝承としての特質を言語の上に考へることの出来ない常識論が、さう導いてゐるのである。言葉の伝承といふ事実は、或点まで、時間空間を超越する力を考へなければならないものなのである。
沖縄語と言つても、村々で言葉は違ふ。其は村の神の違ひに依る。必要以外言葉を交さない村々が彼方此方にあり、其為に古い言葉が維持せられて居る。神々の発する神言に依つて、支配されてゐる部分が尠くないのである。おもろ[#「おもろ」に傍線]・おたかべ[#「おたかべ」に傍線]・みせゝり[#「みせゝり」に傍線]などいふ種類、或はまたその系統のものが、まだ地方に残つて居る。此が地方の方言を今も尚支配してゐて、日常語を古い状態に置いて居るのである。おもろさうし[#「おもろさうし」に傍線]は、さうしたおもろ[#「おもろ」に傍線]を六百年前から中央に集め蓄積したものである。
沖縄語では、小いと言ふ意味の言葉が下につく。関東から東北地方へかけて、盛んに語尾にこ[#「こ」に傍線]をつける事実に似てゐる。小い何々と言ふ義で、橋ぐゎぁ・牛ぐゎぁなどゝ言ふ。小い橋・小い牛といふ組織である。ちやうど日本語の接尾語に似てゐるが、此は必しも小いと言ふ意味ではない。国語でもこ[#「こ」に傍線]・さ[#「さ」に傍線]・を[#「を」に傍線]など言ふ接頭語は小いものゝ意味であるが、ぐゎぁ[#「ぐゎぁ」に傍線]は親愛の意味で、さゝやかなでりけいと[#「でりけいと」に傍線]な感じを以て接する時の言葉で、かならずしも小くなくても宜いのである。沖縄では、この熟語法が直ぐ眼につく。かうした文法組織が沖縄には幾らもあつて、おもろ[#「おもろ」に傍線]以来の文献にも、方言にも残つて居る。ぐゎぁ[#「ぐゎぁ」に傍線]の古形は、がま[#「がま」に傍線]である。母及び妣の国を懐しんで「母《アモ》がま」と言つたのが、「あんがまあ」となつてゐる。宮廷女官の称号であつた「あむしられ」は「知られ母《アモ》」と言ふ義である。「きんまもん」なる霊神は、「真物|君父《キミ》」の義に過ぎない。かうした事は、更に台湾にもある。台湾人の言葉と言つても、蕃族調査報告書などに依つて見るだけでも、生蕃・熟蕃の言葉を整理して見ると、言葉は固より文法組織は部落々々に依つて違つて居る。うらるあるたい[#「うらるあるたい」に傍線]型の組織の幾分を持つた処もあるが、多く所謂南洋系の構成法を持つたのが普通である。最後が述語で終ると言ふ形とは全く異り、英語の様な形式を持つものもある。従来の言語学者は、語序を以て同語族を組立てゝ行くのであるが、其は、殆、単なる形式主義の偏執であつて、早晩訂正しなければならぬ方法でありさうだ。蕃族は、語序が日本及び琉球と違つて居る。更に南方の日本委任統治の島々から、蘭領印度地方に考へ及すと、語序は全く相違して居る様であるが、単に見た上の考へ方で、根柢の一致は多く求めることが出来るのである。だが、此は、只今当面の問題ではなく、且私には其だけの知識がない。而も此等の種族の言語を見ると、やはり日本の古い熟語法と同じ形式をとつて居るのである。文章の語序が違ふやうに、熟語を作る方法が、近代の国語とは全く違つて居る様に見えるだらう。だが、昔の我々は、併し其を持つて居たのである。
ところが、さういふ熟語の作り方、即、修飾部を先立てる形の外に、熟語の作り方はまだいろ/\ある。此を時間的に言ふのは避くべき事なのだが、文献時代には著しく現れて来るのであるから、前の形よりは幾分新しいのではないかと思はれる形は、修飾する語根が先に行つて、修飾せられる主部が其後に来るといふ、一見普通の形である。即、二個の言葉が並んで居るのか接続して居るのか訣らぬ為に、或方法に依つて此を区別する形をとつて居る。此が、前述の形式を古いとすれば、次に来るものであらうと思ふ。其は先づあくせんと[#「あくせんと」に傍線]で表すであらう。事実、さうした試みも、古人は行つたらしいのである。二つの言葉を並べて、今なら小読点を入れるといふ風に、昔の人は単に言葉を並べて行く場合と、熟語を作る場合を区別して、熟語の場合はあくせんと[#「あくせんと」に傍線]を以て下に接続してゐるものなるを示した。詳しい事は訣つて居ないが、古事記だけには、其が僅かながらある。重んずべき伝統的な固有名詞又は、神秘な文句には、此方法をば採用して居る。熟語があくせんと[#「あくせんと」に傍線]を促すのか、あくせんと[#「あくせんと」に傍線]のある為に熟語の職能が果たされるのか訣らぬが、ともかくも、此考へは、とりのける事は出来ない。
其に関聯して、熟語を作る場合に、語根が屈折することに注意を要する。従来、この体言及び名詞の屈折については、多く言はれてゐない。だが、此は大切である。今では体言の語尾は動かぬが、昔は動いたらしい。此事実は、沢山ある。まづ普通音便と称するものからはじめる。エ列の音を持つた名詞が熟する場合は、ア列音に変る。例へば、さけだる[#「さけだる」に傍線]は
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