々の熟語法からはちよつと訣りにくい言ひ方だ。謂はゞ簾下なのである。下沓・下簾などいふ語を見ると、沓・簾に熟語の主部があり、下が修飾してゐる様に見えるから、当然の熟語の様に考へられるが、実はさうは言へないのである。した[#「した」に傍線]が下に来るのが本当である。同時に、傍丘の場合の如く、下「なる物」の暗示が、皆に享受せられることゝ予期してゐるのである。此は、新時代の熟語でありながら、昔の熟語法と通じてゐるものがあるのだ。忘却の間歇的復活か、古い方法の遺存してゐるものに学んだのか、此説明は、単純には出来ない様である。此などは、語根が上にある様になつてゐるから、一見新しさうに考へられるが、此熟語法は実は、古いのである。此形は実に沢山あるのであつて、珍しい例をあげた次第ではないのだ。又、現代においても、かうした見地から、精密に方言の古格を存してゐる部分を探せば、類例はまだ/\出て来ると思ふ。殊に、我々の国の周囲民族・種族に於いて、我々と同種の裔族であつて、文献時代前に岐れたものを検断して見ると、其が訣る。沖縄がさうである。朝鮮になると関係が少し複雑になる。沖縄の言葉は、謂はゞ日本の方言に過ぎ
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