達を考へなければならないと思ふ。
ちやうど適切なことは、ながめ[#「ながめ」に傍線]には尚説明が出来る。これも事実に相違ない。ながめ[#「ながめ」に傍線]は霖雨の時期の物忌みである。此時期に、神がこの世に現れて来ると信じてゐた。さつき[#「さつき」に傍線]とながつき[#「ながつき」に傍線]とは霖雨の時期で、九月と共に五月は物忌みの厳重な時であつた。其中、九月は風俗を離れて信仰だけになつてしまつたが、五月は田植の信仰と結びついて永く残つてゐるから、その理由がよく訣る。五月には、田植の終る迄は逢ふことが出来なかつた。其をながめ忌み[#「ながめ忌み」に傍線]と言うて居る。夫婦であり乍ら、逢へないのである。「ながめを経しめ……給ふ」と言ふのと同じである。果して何れが元か訣らぬが、仮に決着をつけて見れば、長雨の時期で禁欲生活をすることからながめ[#「ながめ」に傍線]が出で、此からめ[#「め」に傍線]が出て、「ながめを経しめ……給ふ」になつたと言へるのであるが、我々は昔の言葉に対する用意や感覚に乏しいのであるから、簡単には決められないのである。
一つの言葉が出来て用ゐられると、他の類似の言葉に対する理会が働きかける、即、第二義的の語原が元の言葉にかぶさつて来るのである。さうさせるのは、所謂民間語原説である。さうなると、何処から起つて来たのか訣らなくなつて来る。さうして用語例と言ふものが、無限に拡がつて行く。ながむ[#「ながむ」に傍線]と言ふ動詞は、先づながめ[#「ながめ」に傍線]と言ふ名詞から来たのに違ひないのである。長雨にせよ、なが媾《メ》にせよ、名詞である。其ながめ[#「ながめ」に傍線]が既に語根の屈折したゞけで出て来たのではなく、動詞状の心理的変化の過程を経て来て居るのである。即、仮に言へば、ながめふ[#「ながめふ」に傍線]と言ふ、謂はゞながめ[#「ながめ」に傍線]を為上げると言ふ感じが、非常に働きかけて来てゐるが、む[#「む」に傍線]といふ語尾をとるには、何等参与して居らぬのである。ながめ[#「ながめ」に傍線]とながむ[#「ながむ」に傍線]はきつぱり分れるが、語原説を持つて来ると、一筋の繋りがある。第二義になると、語根と語尾のはつきり分れるものもある。ともかく、語尾が先づウ列音をつくつたと言ふことは考へられない。さうして、先づ連用或は将然、稀には連体と言ふやうな形が出来
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