ら推して行かなければならないのである。
割合近代的の感じを持つ言葉を例に引いて見る。みのる[#「みのる」に傍線]は、み[#「み」に傍線]がのる[#「のる」に傍線]だと言ふ説がある。我々には此言葉が、句乃至文章だといふ感じが退化して、動詞の感じが深い。たがやす[#「たがやす」に傍線]は一語だと思ひ乍ら、「田をかへす」と言ふ気持も制《おさ》へられぬのである。従つて、熟語から出て来る動詞を考へても、段々二つの言葉が結びついて居る、と言ふ感じのなくなつて行く筋道が見えてゐる。併し、古い用言の起源を説く場合、此をみのる[#「みのる」に傍線]と言ふ様な形、即み[#「み」に傍線]がのる[#「のる」に傍線]と言ふ様な文章風な感じのするものから出来て来たと考へるのは、宜くないのである。もつと心理的な、語根と主部との間に、密接な関係と言ふよりも、飛躍があるものと見なければならないと思ふ。
多く用言殊に動詞の場合は、主部が小くて語根が大い。しかも此主部が、動詞そのものゝ職能を定めてゐる。即、活用形が動詞の形を決めて行く訣である。思ふに、語根と主部とで成り立つた動詞は、最初の動詞ではなく、まう一つ前の形は、語根から屈折を生じて出来たものである。いく[#「いく」に傍線]は生活する或は呼吸する意味に考へて居るが、語根の場合にはいく[#「いく」に傍線]弓・いく[#「いく」に傍線]矢など言うて、威力を持つてゐる意味である。形容詞になるといかし[#「いかし」に傍線]など言ふ形を持つて居る。さうなる語根の屈折の状態が、第二義の熟語の場合から動詞を作つて来る場合をも、宿命的に支配して居る。単純な熟語ではないのである。所謂動詞といふ形が、一度単純から複雑な形になつて行かなければならないので、みのる[#「みのる」に傍線]と言ふ形も余程進まねば出て来ないのである。
ウ列の語尾の意味は、必まう少し意義のある完全な言葉が壊されてなつた、即、体言から動詞に屈折して来る習慣から出来たもので、古い意義の具つた言葉が破壊されて固定したものと思ふ。さう言うてしまへば、稍《やや》語弊がある。うくすつぬ[#「うくすつぬ」に傍点]はウ列の終止形であるが、終止形は一番後れて出て来るのである。形容詞で見ると、其がよく訣る。どうしても、終止形から始つて居るものとは考へられぬ。連用形・連体形が先づ出来て、其から終止形が具つて来た傾向があ
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