鉢――他の側からも説明を試みねばならぬが――をかづかせられた後天性の異形が、結婚に関聯して壊れる機会が来る。さうして美しい貌を顕すと言ふのも、よく見れば、蛇子型の加工せられたものであつた。
此等の話が、結婚と悪身解脱を一続きにしてゐるのも「蛇子型」のあつたことを見せてゐる。兼ねて此型は、母と成年式と嫁とりの資格とに関聯したものなることを物語る。
小栗判官の本宮入湯は、膚肉の恢復の為と言ふ様に見えるのは、餓鬼身解脱の為の参詣と言ふ形が、合理化せられて、歪んで来たものと見ることが出来る。
江戸期より前の幽霊は、段々餓鬼と近づいて行つて居ることは述べた。さうした幽鬼の中、時を経て甦る者の、魂の寓りは、鳥けものゝ為に荒されて枯骨となつて居る。火で焚かぬ限りは、幾度でも原形に復した巨樹民譚は、もはや印象薄くなつてゐたのである。さうした餓鬼身を空想するだけでも、いぶせい教誨である。異民族――他界の生類――餓鬼と、衣類・肉身を中心にして、異郷観は変化しながら、尚、霊物としての取り扱ひは忘れなかつた。餓鬼身を脱しようとした幽鬼の苦しみは、小栗浄瑠璃には、朧ろに重る二重の陰の様に見え透かされて居る。

     二 魂の行きふり

小栗の二重陰の上に、まだ見える夢の様な輪廓がある。其を分解して行つて、前とはすつかり反対に、寄るべを失うた魂の話がしたい。小栗の物語には、肉身焼かれずにあつた事になつてゐるが、かうした場合の説経の類型から言へば、魂をやどすべき肉身を探して、其に仮托して来ることになつて居ることは既に述べた。だから、此浄瑠璃もすぐ一つ前の形は、遊行上人の慈悲で、他人の屍に移して此世の者とせられた上、開祖以来関係深い熊野権現の霊験に浴して、肉身までも其人になり変ると言ふ筋であつたものと見る方が、手の裏反す様に小栗土葬・家来火葬と、前段に主従火葬とした叙述を顧みないでゐた点の納得もつく。家来たちの亡霊が小栗の娑婆還りを歎願する点も、効果の乏しい上に、近代の改作を見せる武道義理観である。此部分は、角太夫の居た頃の町人にとり容れ易い武士観であつたらう。おなじく荒唐無稽でも、少しは辻褄を合せる方が、見物の心を繋ぐ道であつた。
併し今一つ、魂のよるべについて、考へ直すべき部分がある。それは離魂病である。江戸期の人々は、かげのわづらひ[#「かげのわづらひ」に傍線]と称へて居た。此とても、漢
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