なる。私はやはり、鏡の象徴する魂・穀物の象徴する魂が、外来魂として代々の日の御子に寄り来るものと見てゐる。うかのみたま[#「うかのみたま」に傍線]を表すのに稲魂の字を以てするのも、此消息を示して居る。生命の祝福と建て物の讃へ詞が並行叙述の形で表現せられてゐるのは、もつと根本的に、此とようかのめの神[#「とようかのめの神」に傍線]の魂が、家あるじの生活力に纏綿して居るものとせられてゐたからであらうと考へる。
食国の政を完くする為に、穀神を斎くと考へるよりも、食物の魂の寄つて居る為に、家長の生活力が更に拡充せられると言ふ信仰から出たのであらう。二神器及び三神の魂を与へられたのも、此意義から、無限に外来魂を殖して考へることの出来た古代人の思想を見る事が出来よう。殊に考へ方は新しくても、智力の魂の伝への方は、外来魂の権力の上に、助勢する力として、附着して来るものと考へられた痕を、はつきり残して居る。玉・劒は、呪力の源と見る方が適当であるらしい。
外来魂の考へが荒魂・和魂に融合して、魂魄の游離観を恣ならしめた。荒魂・和魂の対立は、天子及び、賀正事《ヨゴト》を奏する資格を持つ邑君の後身なる氏々の長上者にも見られる。而も二魂、各其姿を持つものとの考へから、荒魂の為の身、和魂の為の身に、二様の魂のよるべ[#「よるべ」に傍線]としての御服《ミソ》を作つた。其二様の形体を荒世《アラヨ》・和世《ニゴヨ》――荒魂の身《ヨ》・和魂の身《ヨ》――と言ひ、御服を荒世の御服《ミソ》・和世の御服と称へた。而も荒世・和世の形体の寸尺を計つて、二魂の持つ穢れ・罪を移す竹をも、亦荒世・和世と言うた。二魂の形体の形代としての御服に対して、主上の寸尺を計る竹も、二魂の形体其物の殻と考へられてゐるので、ある時代に、後者が陰陽道の側から、とり込まれた方式なることを示して居るのではないか。此が、夏冬の大祓に続いて行はれる主上の御|贖《アガナ》ひなる節折《ヨヲリ》の式である。東西の文部《フビトベ》が参与することから見ても、固有の法式に、舶来の呪術の入り雑つて居ることは察せられる。
鎮魂祭の儀を見ると、単に主上の魂の游離を防ぐ為、とばかり考へられないことがわかる。年に一度、冬季に寄り来る魂があるのである。御巫《ミカムコ》の「宇気《ウケ》」を桙で衝くのは、魂を呼び出す手段である。いづれ平安朝に入つての替へ唱歌であらうが、
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