末」しやくつてあげろ。ゆすつてあげろ。
(谷からいかば、岡からいかむ。岡から行かば、谷から行かむ)
本」お前が谷から行くとすりや、おれは高みから行かう。末」お前が高みから行くとすりや、おれは谷から行かう。
(これからいかば、かれからいかむ。かれからいかば、これからいかむ)
本」お前が此処をば通るなら、おれは向うを通る。末」お前が向うを通るなら、おれは此処を通る。
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かうした口訳を作ることは、くどい事だし、尚、当然誤訳もあるだらうし、私自身に別説もある。これは頓作《トンサク》問答だから、早歌と言つたのだが、歌と言ふほどの物でもなからう。その中「近衛御門云々」は即座の応酬だらうし、「女子《ヲミナゴ》の才《ザエ》云々」は諺だつたらう。
神楽の歌詞から、神楽の原義は固より、その過程を引き出さうとする事の無謀であることは、勿論の事である。其だけ替へ歌が、沢山這入つて来てゐる訣だ。だが、早歌を見ると、如何にも山及び遠旅の印象が、明らかに出てゐる。其上に、「近衛御門に巾子落いつ」などになると、踏歌に出る仮装者の高巾子《カウコンジ》や、其に関聯して中門口の行事などが思ひ浮べられる。謡ひ方も勿論早かつたであらうが、其は問答に伴ふ懸け合ひの早さであり、頓作問答としての意義を含んでゐるのである。人長・才男の問答で、其早歌が流行した結果、白拍子歌にまで入りこんで、幾つもの今様を懸け合ひで連ねて行くところから、宴曲の早歌が出て来たものと考へられる。ともかくも、神楽においては、才《サイ》[#(ノ)]男《ヲ》は、これで引きこみになる訣で、全体の趣きから見ても、名残惜しみの様子が見えてゐる。
海部の伝承は、記紀・万葉を見ても、其物語歌の性質から見て、或は、その名称から見て察する事の出来るものが多い。更に大きな一群としては、海語部《アマガタリベ》の手を経て宮廷に入つたものと思はれるものがあるのである。此には多少の疑問はあり乍ら、私どもにとつては、既に一応の検査ずみになつて居るのである。現在の処では、山人及び山部に属する人々の伝承は、鎮魂とその舞踊とが名高くなつて、其詞章の長いものは、わりに失はれたものが多い様に見える。今度の試みにおいて、西角井君の為事を記念する意味において、神楽を主題にしたのも、実にこゝに一つの焦点を結ばうとした理由もあるのだ。日本紀には、「山」について、却て大きな伝承群のあつたらう趣きを示してゐる。応神帝崩後、額田《ヌカタ》ノ大中彦《オホナカツヒコ》、倭ノ屯田・屯倉を自由にしようとなされて、是屯田は元来「山守ノ地」だから、我が地だと言はれた。大中彦は、大山守尊の同母弟だからと言ふが、実は一つの資格なのだ。大鷦鷯尊、倭ノ直《アタヘ》祖麻呂を召し上げて、其正否を問はれた時、「私は存じません。唯、臣の弟|吾子籠《アコゴ》、此事を知れり」と奏上した。其で、韓国《カラクニ》に使して居た同人を急に呼び寄せられた。吾子籠の御答へには「倭の屯田は天子の御田です。天子の皇子と申しても掌る事は許されぬ事になつて居ます」と答へたのは、倭ノ直氏人の中、神聖な物語を継承する資格即|語部《カタリベ》たる選ばれた力が吾子籠にあつたのだ。さうして、倭氏であるだけに、「山」に関係が深かつたのである。山神に仕へる資格を持つた倭国造家の人である。これも単に唯、保証人と謂つた為事だけなら、わざ/″\韓国から、氏人の中、限られた者の呼び寄せられる理由はなかつた筈だ。
かうした「山の伝承」が、山人、山部及びその類の神人の間にあつたのが、早く詞章を短縮した歌殊に短歌の方に趣いたのは、神遊《カムアソビ》詞章の特殊化であつた。私などは、海部が其豊富な海の幸と、広い生活地を占めてゐる為の発展力を、何処までも伸して、神遊びまでも、平安朝に到つて自家のものを推し出して来たが、元は、「山神楽」が重要なものだつたと思ふ。「採物」を見ても、殆《ほとんど》山及び山人、山の水に関係ある物ではないか。
あまりに物を対比的に見ることは、誤つたしうち[#「しうち」に傍点]に違ひないが、私は後世式にかう言はう。海部《アマ》の浄瑠璃、山部の小唄。即前者は、平安期の末まで、長い叙事詩を持ち歩き、後者は早く奈良朝又は其前にすら短歌を盛んに携行したものと見られるのである。たとへば、山部宿禰赤人、高市連黒人、皆山ノ部に関係深い人々である。柿本ノ朝臣人麻呂にしてからが、倭の和邇氏の分派であり、其本貫、其同族を参考にしても、山に関係が深いのである。かう言ふ見方は、必しも正確を保する事は出来ない。が、一応は考へに置いて見る必要がある。
ひと言
私の言ふべき事は、単に緒についたまでゞある。此等の海及び山の流離民《ウカレビト》が、国中を漂遊して、叙事詩、抒情詩を撒布して歩いた形から、其が諸国に
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