め」に傍線]の朧《おぼ》ろになつたのは、平安中期の末頃と見てよかろう。其頃出た恵心僧都は、これを狂言綺語として却《しりぞ》けた。僧房の無聊を紛す贈答の歌が、心やすだてのからかひ[#「からかひ」に傍線]や、おどけ[#「おどけ」に傍線]に傾くのは、ありうちの事である。歌がらの高下を構はぬ、自由な物言ひもする。金葉集の連歌作家に、法師の多いのも合点がゆく。相聞・問答の歌は、いつも相手の歌の内容を土台として、おし拡げて行つてゐる。跳ね返しのもあり、あまえるのもあるが、唱《カケ》の歌に与へられた難題を釈《と》く、と云つた態度のはない。此は、旋頭歌で見ても、さうだ。
古今の誹諧歌には、まださうした傾向は、著しくはない。「何曾《ナソ》」合せの影響を受けたことは勿論であるが、寺家の論義問答の方式を伝へて居るのであらうかと思ふ。歌と論義との関係は、今昔物語の行基・智光の件でも知れる。説経師に対して「堂の後の方に、論義を出す音あり」智光「何許の寺なれば、我に対《むか》ひて論義をせむずるならむと疑ひ思ひて、見返りたるに、論義をなす様、真福田《マフクダ》が修行に出でし日、葛袴《フヂバカマ》我こそは縫ひしか。片
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