れる様になるまでには、長い時を経た事であらう。さう言ふ短歌の形の讃頌が、やはり、今様の発生と似た道筋を、通つた事は察せられる。女の側の歌垣が、踏歌に習合せられたと同様に、男の方では、寺家の講式・論義と併せられて、痕を止めてゐたと見る事も出来る。で、女房の贈答の巧みなのに対して、法師の唱和に馴れてゐた事実も説明はつく。説経僧が、即座に歌を詠んで、聴問衆を感動させた例は、※[#「代/巾」、第4水準2−8−82]《ふくろ》草子・今昔物語などに見えてゐる。内道場などに出入る僧の、女房とかけ合せた恋歌の形をとつたものゝすべてを、直に、堕落の証と見ることは出来ない。寺家の歌が、さうした道から習熟せられて、遂に一風を拓く様になるまでには、二通りの別な傾向が見られる。
宮廷の流行を逐ふ軟派と、時流に染まないで、讃頌の旧手法を保つてゐた謂はゞ硬派に這入る者とがあつた。此方は、ごつ/\して、歌の姿や、しらべには無貪著《ムトンヂヤク》である。仏語を入れるかと思へば、口語発想も交へる。平民生活の気分も、自然出て来て居る。鄙《ひな》びては居るが、信頼の出来る、古めかしい味ひを持つてゐた。此二派のけぢめ[#「けぢ
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