唆る哀愁、かうした方面に、影響が来た。孤独であつてもかそかな[#「かそかな」に傍線]ものではなかつた。悲しくても、涙に誇りを感じる廃頽味を持つてゐた。此が一脈の糸筋を、前代以来の雑芸・小唄と引く、閨怨のあはれさであつた。だから、心ある[#「心ある」に傍線]方に進まうとすればする程、前代の、いろごのみ[#「いろごのみ」に傍線]・ものゝあはれ[#「ものゝあはれ」に傍線]を知ると言ふ内容に入るばかりであつた。院の如きは、平安中期ならば、典型的な心ある[#「心ある」に傍線]人であつたはずだ。が、後鳥羽院は、寧、太みに徹し、たけ[#「たけ」に傍線]ある作物と生活とを、極点まで貫かれたらよかつたのである。独り思ふ境涯に立つか、或は素質がさうだつたなら、群集の中にゐても、孤独を感じ得たであらう。が、院には、さうした悲劇的精神は、此隠岐本を抄して居られる間にも、やはり徹底しては、起つてゐなかつたものと思はれる。
或は思ふ。大きな永遠の意志があつて、至尊風の歌風を貫かさうと言ふ方に、院を向けてゐたのかも知れない。真のこゝろ[#「こゝろ」に傍線]を、至尊族伝来の太み[#「太み」に傍線]から拓かせよう、と企てゝ居たものと思ひ見ることも出来よう。ある畏しい驚くべき時運の退転を促して、享楽生活から一足飛びに、孤独を思ひ沁み得る、沖つ国に据ゑ奉つたのかも計りがたかつた。でも、院の持たれた太み[#「太み」に傍線]は、あまりに享楽の色合ひを帯びてゐた。院に於て、此等の調和は、廃頽主義の韜晦味を基礎としてゐる様な形をとつた。若し、後鳥羽院が、至尊風の気稟の上に、真の孤独の境涯を拓かれたとしたら、さうした民謡風な末梢的興味や、新古今の健全な成長身たる玉葉集などにも止つては居なかつたであらう。
やまとたける[#「やまとたける」に傍線]の尾津[#(ノ)]崎に忘れ置いた十束劔は、時を経ても、一つ松の枝に、さながらに残つてゐた。「尾津[#(ノ)]崎なる一つ松あせを」の歌は、古代人の理想的人格にのみ考へた、無碍孤独の境涯から出た物であつた。朗らかで、こだはりのない、英雄一人の外には、行く人のない天地であつた。西行から芭蕉へ伝つたこゝろ[#「こゝろ」に傍線]は、自然主義上の普遍性であつた。忘れてゐた共通を、とり出すものである。効果は謂はゞ、平面的の拡りを持つ。此に対して、人生に新しい真理の附加せられるものゝあるは
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