合、女房の手から、番歌を降される様な例が出来てゐた。寛平歌合せの如く「上御製」など清書せられた例もあるが、次第に、女房歌合せの慣例と、尊貴の御名を忌む風習とからして、女房名を署する様になつたのである。宮廷と事情を一にして進んで来た貴族の方でも、自然主催者たる家長の名を、女房とする様になつて行つた事は訣る。一応表面的に、詩合せに促されて頭を擡げ、文学意識も起つたことは言うてよい。漢文学の素養と興味とが、社会的に衰へて来ても尚、詩合せを第一と考へ、歌合せを卑下する習慣は久しかつた。其が新撰万葉などから暗示を得、朗詠集の類に気勢を煽られて「詩歌合せ」がものになつて来たものと考へる。
連歌までが、詩句や、漢文調をとり込む様になつて行つた。連歌が、始終歌合せから刺戟を受けてゐたからである。宮廷や貴族の家の女房の職掌展開の径路との絡んだ因縁と、交錯してゐる事は、事実である。唯、歌合せの女房の意義が、「女あるじ」の義であるか、其とも亭主の代りに歌を扱ふ侍女の義であるかは、簡単には言ひきれぬことである。
秋篠月清集と云ふ表題からは、良経はじめ新古今同人の生活態度のある一面を演繹して来ても、よい様に思ふ。後鳥羽院にも、ある時は左馬頭親定と言ふ変名を使うて居られた位である。
たゞの上達部《カムダチメ》や、伝統の絡んだ重苦しい氏の名などゝは違うて、きさく[#「きさく」に傍点]な、自由な感じのする、ありふれて居ない姓や、位も、官も脱ぎ棄てた様に、通り名や、法名だけで通つて居る隠者などから受けるさば/\した気持は、想像出来なくはない。それとても、趣味と言つた程度のものに過ぎなかつたであらう。王朝末から著しくなつた上流の人々の、低い階級の生活に寄せた驚異の心は、段々深まつてゐた。異郷情趣に似たものに、はずませられて、思ひもかけぬ世相を実験した向きも多く出て来た。一つは、此為でもあらう。
第一番の理由としては、歌合せ・連歌の持つてゐた如何にも新興文学々々した、鮮やかな印象から来てゐる事である。恣《ほしひまま》な朗らかさが、調子に溢れてゐた。伝統の鬱陶しさも、まだなかつた。実は、文学の一様式として認められ出した王朝末にすら、既に新味のない固定したものであつた。其が詩歌合せの流行によつて、初めて文学態度に這入つて来て、ある方面では、生れ更つた様になつた。一番々々|番《ツガ》へられる相手方の詩句は、漢
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