響は、先進学者の予断よりも、ずつと微かであつたことが知れよう。片哥や、相聞の類の、歌垣の場《ニハ》に発生した唱和・贈答の発想法は、いろ/\に分化して行つた。旋頭《セドウ》歌の如き、単長歌の如き、或は短歌の類まで、皆此かけあひ[#「かけあひ」に傍線]・つけあひ[#「つけあひ」に傍線]の発想をば基礎にして居るのである。此形式方面を多分に伝へて完成したのは、歌合せと連歌とであつた。かけあひ[#「かけあひ」に傍線]は、言語の上の詭計式の表現や、機智ではぐらかしたり、身をかはしたりする修辞法を発達させた。天徳四年内裡歌合せは、女房歌合せと称せられたものである。宮廷の歌合せの古くよりあつた事は、万葉巻一額田[#(ノ)]王の「秋山われは」の歌を、最正しく考へることからでも言へる。「歌を以て判ずる歌」と序にあるのは、額田[#(ノ)]王以外の人々も、歌を以て主張したものと見る方がよいのである。「春秋|諍《モノアラソ》ひ」の極めて古い形なのであつた。
歌垣の歌の、古詞何々|振《ブリ》を繰り返す様になつて行く一方に、風雅な遊戯・宴遊の方便に用ゐられた側が、次第に、文学態度の意識を生じて来た。万葉の群詠の中には、さうした部類に入るものが尠くない。古今以前の在民部卿家歌合せなどを中に据ゑて見れば、歌合せの固有種子なる事はわかる。天徳のを女房歌合せと言ふ訣は、後宮方の歌合せなる事を露《あらは》にして言はねばならぬ理由のあつた為なのだ。
当時公卿等は、流行の詩合せに専心になつて、歌合せを顧みなくなつて居た。それ故《ゆゑ》行うた女房の中からも、読人・方人《カタウド》を出して、男歌人に立ちまじらせた歌合せ――七条後宮歌合せ・亭子院歌合せなど――は、かうした流行に圧されて行つた。其為、かうした催しが、後宮から発起せられて、左右の頭《トウ》を更衣級から出し、方人《カタウド》に女房を多く列せしめた。競技者たる読人の中にも、女房が立ち交つてゐる。だから女房ばかりの歌合せの意ではなく、後宮の人たちが亭主となり、興行者となつて、催したと言ふ義であつた。
七条後宮歌合せや、中興の此歌合せが先例を作つて、歌合せの本格は、女房の興行によるもの、と思ふ様になつて来たらしい。其で、主催者たる家あるじは、女房のつもりで居り、読人に立つ時は、表面、名は「女房」と清書させた、と言ふ事情も考へられる。
要するに、尊貴が亭主たる場
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