詩としては類型式なり、断篇風な物であつても、此先進文学の持つよい態度が、敷き写しに伝へられてゐた。漢文学には、歌には忘れられ勝ちな文学意識だけでもあつた。対句詩人すら其を失はずに居た。
日本の漢詩は、字面は支那の律に従うてゐても、実は変態の国文として訓《よ》まれ、詠ぜられて来た。固有の詞章になかつた音律が、古く和讃・踏歌に伴うて起つた。催馬楽・朗詠・今様でこなされて、漢詞章と日本歌謡との音脚・休止から、行の長さまで調節せられる様になつた。国民の内部律動が、さうした音律に叶ふ事が出来る様になつた。其上、此新しい拍子に乗らねば表現出来ぬ内生律さへ生じて来た事である。其代表に立つものは、此時代に完成した宴曲・早歌《サウガ》の一類である。
上元の歌垣が、漢訳せられ、習合せられて、踏歌節《タウカノセチ》となつた事は、疑ひもない事である。さすれば、其|喰《ハ》み出しの部分の、主因となつて、歌合せの形を纏《まと》めて来た径路も察せられる。原則としては、男女入りまじりであつたものが段々姿を変へて行つた。
女房方のあるじぶり[#「あるじぶり」に傍線]で、女房をも番に組む。さうした歌の対抗《アハ》せの盛んになるに連れて、此までなかつた事がはじまつた。神秘主義の薄らいで来た宮廷では、天子・中宮すら、かうした競技に加はられてもさしつかへない様になつて来た。古今集に、当今の御製のないのも此為だ。時としては「上」或は「宮」などの称号を以て示してゐる。が、此は後の書き直しで、恐らく伝達した女房の名或は、単に女房として、出詠せられたものであらう。さうした女房が、古い歌合せにも多い。だから、後鳥羽院に始まつた事とは言へないのである。唯、此頃になつて其が、亭主としての権威を示す方法の様に、考へられ出したのも、事実である。
六百番歌合せにも、さうした気持ちから、亭主の良経は、番の歌には女房を名告つてゐる。此風は後程盛んになつて、表は全体匿名の歌合せすらある。戦国の浪人や、其意気を守つた江戸初期の武士などの間にはやつた「何々之介」と言つた変名も、起りは一つである。此は、室町以来の草子・物語から来た趣味の応用であつた。鎌倉の昔も、さうであつた。歌は学問であつて、才芸ではなかつた。歌合せ・連歌、皆文学意識は持たれて来ても、遊戯であつた。文学らしくなればなる程、韜晦趣味・ちゃかし[#「ちゃかし」に傍線]気分が深
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