したであらう。彼の雲水生活が此を救ひ、様々の風物・人事に触れさせ、感傷性を鍛へて悲劇的精神を作つた。だから彼の作物のよい物は、蔭に感傷性を蔵して居る。其気分に融しこんだ自然であり、人事であつた。
西行も、人事を詠む時は、自然を受け入れる様にはゆかないで、歌の匂ひを思ひ、たけ[#「たけ」に傍線]を整へ、恋歌じたての作物をとつた。芭蕉が、彼の作物から悟つた「しをり」や「さび」は、悲劇的精神から出たのであつた。わびしい・かすかな・ひそかな心境の現れた作物について言ふ語である。しらべ[#「しらべ」に傍線]を境にして内的に観察してさび[#「さび」に傍線]と言ひ、形式的に感受する静かな曲折の連続を、しをり[#「しをり」に傍線]と言ふのだ。
かうした先輩や、教導者の後に出られたのが、後鳥羽院であつた。万葉の昔から、当代に亘り、すべての歌風と、歌学の伝統を網羅しようと努められ、同好者の間に濃い雰囲気を愈密にしてゆかれた。
そこへ、至尊風のしらべ[#「しらべ」に傍線]が時に出て来ては、新古今風の中に、大がらな味ひを加へた。結局「細み」の出て来る事は稀になつた。当時で言へば、近世の大歌人たる経信以来、皆たけ[#「たけ」に傍線]を高める事に努めて居た。「細み」を出す西行風の人があつても、僧侶の歌を見る態度で鑑賞したから、内容のわびしさ[#「わびしさ」に傍線]だけが訣つて、其しらべ[#「しらべ」に傍線]は寺家流の平俗体と感ぜられたであらう。感傷性でなかつた院は、西行のわびしさ[#「わびしさ」に傍線]からすら、えん[#「えん」に傍線]な味ひをのみ吸収せられたらしいのである。
院の好みは、歌合せ・連歌・誹諧以外の芸術・遊戯にも広かつた。白拍子の舞は勿論、唄も嗜まれて、白拍子合せすら行はしめられた。今様は王朝末に外典凝りの公家の間に、朗詠に替るはいから[#「はいから」に傍線]な新様式・新内容の文学として行はれ出したが、此も謡ふ白拍子たちの今様詞曲の固定や、新しく起つた宴曲其他の為に圧せられて、里から再、寺へ戻つた。作歌者も、僧侶階級に止るやうになつた。まだ此頃は、前代のなごりで、文学として行はれたことは、前にも述べた。此文学を通じて、讃歌の味ひも這入つて居る。寺家の講式・説経などの節まはしや、内容も影響して、歌枕の制約などは蹶飛ばして、叙事的の態度も、歌の上には出されて来た。此芸謡調は、院の御製
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