る事であつた。だから、連歌が文学となり、和歌は学問と考へられた。連歌を作る為にも、学問として、短歌及び其系統の物語を修めねばならぬと信ぜられた。さうして、誹諧は連歌に対して、段々に、其昔、連歌が和歌の余興であつた様な位置に直つた。
新古今同人が俊成の発見を具体化したのが、其前の恋歌である。彼等は描かうとするかはりに、文章の渦まきに捲き込まうとした。倭魂をつきつめて得ようとした。即いろ好み[#「いろ好み」に傍線]の生活を歌に表すのである。恋歌を作るのに、様々な複雑な状態の心理をも考へねばならぬ様に恋の題は殖えてゐた。一方古く歌の主題の向ふ至極地は、恋愛にゆかねばならぬ様になつて来てゐた。其故、恋はすべての歌の枕である様に考へられ、恋歌気分を総ての歌に、被せようとして来た。其が最著しく本質的に恋歌気分を纏綿させる様になつたのは、此集である。恋歌を主題として、幽玄に徹しよう試みに進んだのである。
隠者階級の種蒔き鴨長明には、先輩があつた。俊頼の子の俊慧法師である。家学の伝統に執する必要もなく、神仏にも著《ヂヤク》せず、当代の歌人に対しても、自由につき会つて居たやうだ。俊頼のたゞごと[#「たゞごと」に傍線]主義は、歌に従来の歌枕以外の語を入れ、優美と考へられて居ない事象をも優美にすることで、其結果は却つて、奇歌を作つた。俊慧は此考への概念を改めて、技巧に関心せず、平々と一気に歌ひあげて、たけ[#「たけ」に傍線]ある歌を作らうとしたらしい。だから感激と気魄とに任せてゐたのである。かうした風格は、隠者文学の先型となつたのであらう。隠者は、古来社会の制度外である。此に入ると、階級的制約を離れるから、上流の人と接するにも、従来の作法によらないでよい事になり、自由に出入りが出来たのだ。つまり僧侶と同じ待遇を受けるのであつた。だから後ほど、名だけ法師で半俗生活を営んで居るものが殖えて来た。
同じ感興派でも、俊慧の、伝統の固定した鈍さを持つたのとは別に、西行は感傷性に富んで居た。西行は、此まで、平安朝歌人の心づかない発想法を発見した。歌枕や、歌の制約に囚はれないで、歌ふことであつた。実感を包んで出す衣が、三十一字であつたのを、実感そのまゝ皮膚となり、肉となる事を知つた。彼も、常に都に上つて居たら、其歌の半分が既にさうなつてゐる様に、先づ屏風絵に描き替へ、物語絵に写し改めた様なものばかり残
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