ける歌論の素養として、さうした理会力と記憶と、其運用の自在を尊んだのであらう。
経信は、此気運の先導者であつた。歌合せの中心として重んぜられ、次第に勅撰集批判などもする様になつた。かうして一世の歌の知識と云はれた。此人前後から、歌合せの博士の様な形が出来て来て、次第に歌派の対立が生ずる様になつた。旧風は公卿風のものであり、新様は趣向歌である。此が調和しては、経信の清醇・寂寥な境涯が開けた。此歌風に於ける両態と歌学とが俊頼に伝り、彼は新風の方へ専ら進んだ。
六 前代文学の融合と新古今集と
俊頼は、親経信程の天賦はなかつた。が、野心があつた。歌枕の存在を明らかにした。枕ごとは多くあつても、まだ組織せられて居なかつた。其を民間伝承、即、異郷趣味を唆る様な、特殊な地方風俗・名産・方言或は――既に固定した文学用語・枕ごと以外に、古典的な清純な感情を起す体言・用言・助辞なども、現代通用の粗雑な整頓せられない都鄙の口語文法などから、識別採用する風雅意識は十分にあつた。現代語・庶物説明説話の童話に近い親しみを持つたもの――かうした精神伝承に関してゐるものも、目標にして居た様である。だから大体やはり、民間の物ながら、古典の味あるものをとつた訣だ。
此は、好忠も或点まで、組織なしにではあるが、用ゐてゐた。俊頼はかうして、歌の世界に刺戟を与へたが、自分の作物は、破壊意識の為やら、用語や題材から来る過度の音調の緊張やらから、態度の露出した不熟な物が多かつた。其新題材、或は新用語を、芸術化する整頓・融合のしらべがなかつた。感じ方・とり方・表し方などが、一向旧来の型を出て居なかつた。其為、俊頼の事業のすべて歴史化した今でも、しつくりと来ない。やはり騒しい歌が多い。散木奇歌集の奇歌の義が叶ひ過ぎて居るのは傷ましい。
此外にも、基俊の古風がある。万葉集に拠ると称して、俊頼に対抗したが、俊頼の歌風――寧《むしろ》情調――が万葉風に感じられるのに、此は万葉の中の題目や名辞、稀には本歌をとり出したに過ぎない。歌枕の採集地として、万葉を扱うたまでゞあつた。尚、一流、藤原顕輔があつて、俊頼とはり合うた。
此時代から、武家の勢力と、習慣とが、次第に沁み込んで、系図と家職との関係が浅くなつた。一方又、儒学の伝統式を移してもよいだけの学問的組織と公認とを持つて来てゐたのだ。大江・菅原又は藤原の庶流か
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