も引き続く。平安中期以来の教育法である。かうした物の外に「連ね歌」がある。述懐を表す形式の様である。尻とり文句である。此は元、問答体から出たので、小唄にも讃歌にもあつたのである。上句・下句を連ねるものばかりとは言へない、連歌の一体なのである。又四季の歌の初め処々に、長歌があり、又はしがきや、集の序などがある。一つは律文、一つは散文と見えるけれども、根本的には同じ物である。
源順集の序にも、さうした傾向が見える。古今序などゝは、大分、音律関係が変つて来て、後の白拍子・隠士の文の発生を思はせるものだ。これ等(或は、後の――男性の――編纂者の書き入れかも知れぬ)新しい景物や、地名や、小唄・神歌や、四季の人事などを媒にして、歌心を助け出さうとしてゐる事は明らかだ。形式や、表現或は部類から見ても、四季・恋・雑の外に物名・誹諧などの言語遊戯も見せてゐる。つまり一種異様な自選家集で、枕冊子の一種らしい企てを示してゐる。発想法の上から言ふと、わりあひ苦心なく、十二个月歌だの、百首歌などを詠んだらしい。だから、単語の用語例に無理はあつても、短歌のしらべ[#「しらべ」に傍線]には関せぬものが多い。恐らく古今集のよりは、古今六帖に近く、又其をもまるきり敷き写す事をせず、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]・民謡の短歌の形で残つた物のやり口をも、とり込んで居たのであらう。大体に亘つて、曾丹風は、先輩歌人を通じても、又上皇自身直接にもとり入れてゐる。
源経信は実は、後鳥羽院の言を俟つまでもなく、平安末期百五十年の初めから中頃へかけて出て、歌の転換の方向を示した人である。今残つた歌は尠いが、其で推しても、芸術家らしい素質は十分に見える。曾丹と俊頼との、年代からも作物からも、ちようど中間に位する人である。曾丹のしらべ[#「しらべ」に傍線]が寧、古今調だつたのに比べると、彼は著しく変つて来てゐる。王朝末の歌人は、古今に亘り、敵|御方《みかた》の歌風を咀嚼して居た。其風の早く著しく見えたのは此人で、巧みに古態と今様とを使ひわけてゐる。
此以後、王朝末の歌人は、多く前代調と新調とを詠み分ける様になつた。さうして両派に対する同情もあつた。俊成は固より新古今の歌人は、女房を除いて殆どすべてさうであつた。此は、歌合せに新様、御歌会には旧調、勅撰集入選の為には、両様に通じて置く必要があつた為であらうが、歌合せにお
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