んじた。遂に物我の混淆・擾乱の中に、官能の病的な複雑さを言語の錯覚から感じさせようとした。此点、新感覚派には近い。音律と題材との美によつて、整頓しようとしてゐたが、其もだめ[#「だめ」に傍点]であつた。唯近代的な感覚を基調として、美しいものと信じた自然現象に、人間生活を合体させようとした。さうする事が生活を美化する手段だとした。明らかな意識の下に動いたのではないとして、さうした態度は帰納してよい。
古今集風の弊は、ある意味では、醇化もせられ、強調もせられた。だが、すべてを、言語の音覚と排列とによつて決しようとした形式偏重主義は、日本文学の成立以来久しい歴史を経てゐるが、実感をしらべ[#「しらべ」に傍線]に寓して内容が直に形式になるやうに努めないのが悪かつた。形式から内容を引き出さうとした結果、病的な近代主義を発揮する様になつた。古今集の寛けさから脱出して、強さ・鋭さ・粘り強さを形式から出さうとした。深さに似たものも、わからぬ歌には出て来てゐる。併《しか》し、内容の形式化した強さでなかつたから、華美・はいから[#「はいから」に傍線]と言ふべき感覚の強さと、文学者として発達した鋭さは、近代的な感覚を表現した。併し自然・人・人生に対する直観力を示す様な心境に、作者の心を誘ひ出さなかつた。真の深さは、形式からは常に来ない。強い姿は結局、女のしつかり[#「しつかり」に傍点]者と言つた形であつた。強さのない所に、憑しさは出て来ない。真の文学と信じ、その表現する所が、吾々の規範に出来ると憑《たの》む気持ちにはなれない。
至尊の先導せられた歌風が、かうしたものになつたのは、あまりに歌を好んで、綜合を試みられた為である。俊成の歌風にも、たけ[#「たけ」に傍線]は著しく現れてゐた。其が一番、至尊として、生活律に適するやうな境遇を自覚する特殊な心を持つてゐられた。改革を欲する心は、強い刺戟を常に加へなければならなかつた。性格も自らさうであつたらうし、境遇も此通りであつた。古今集の影響も十分に入り込み、歌の教導者の主張や、個性から来る発想法の印象も止めない訣はなかつた。かうした事が重《かさな》り/\して平安朝末に既に至尊風の歌風は、特殊性を失ひかけて居た。至尊族伝来の寛けくて憑しい歌風は、鈍くて暗くなつて居た。でも至尊風の歌は、隔世的に現れた。
けれども大体に於て、至尊の歌は、境涯の無拘泥
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