気に保護せられて、奈良以来の旧貴族階級の歌風を圧倒した。
かうして新しい貴族風の歌は出来たが、其最初から角のすりへらされた、近代的感覚のないものであつた。此点ばかりに就て言ふと、新古今は、傾向としては、遥かに存在の意義があるのだ。古今の作者不明の旧時代の作物が――選者等の鑑賞に適した物とは言へ、――十中八まで、選者以下当代人の作物より優れてゐる事は、主義の上ではよくても、創作態度や、生活力の劣つて来た事を見せてゐる。後撰《ゴセン》集には稍旧貴族風に戻さうとする無意識の動きが見えてゐるが、其とても古今の歌風の固定して来た為の、空似かも知れない。其以後、古今集の成立に、醍醐聖帝垂示の軌範と言ふ意義を感じて、此歌風の中での小変化は許されても、飛び離れた改革は行はるべきものとは思はれないでゐた。
短歌では、万葉集――別の理由で、ある部分まで、勅撰の意義を持つて編纂せられたらしい――を除けると、漢詩文よりも、欽定集が遅れて出た。文学としての価値の公認の遅れた為だ。嵯峨朝の欽定による漢詩文より、五十年後に短歌選集の勅撰せられたのは、国民的自覚と言ふよりも、其動力となつた漢文学の思想に対しての、理会のなくなつて来た反動である。後撰を勅撰し、更に漢詩文集を欽定せられたのは、醍醐の事業に競争意識を持つて居られた村上天皇であつた。此欽定事業は奈良以後平安初期に続いた漢詩文の復興を期する意味と、一種の文化誇示の目的との外に、文学史風に見れば、外国文学の最後を記念する標本を立てた訣である。だから、醍醐が短歌を文学として承認せられ、漢詩文と対等の位置に置かれた因縁は、明らかである。
新撰万葉集が果して菅家の編著であるなら、古今集と時代を接して、既に対等の文学価値を認める傾向のあつた事が知れる。而も一代の学者たる、権勢家の手になつたのである。譬ひ聖経に対する――和讃の形式を模したとしても――或は又修辞上の便覧書であつたところで、更に或は、倭漢朗詠集の前型として、声楽の台帳の用途を持つものにしてからが、短歌の価値の認められ出した事は明らかである。国文学史の上に、平安王朝の前百年を、中百年余と、末一世紀半とに対して、区劃する所以である。

     四 歌枕及び幽玄態の意義変化

宮廷の日常交際の古歌引用は、流行に影響せられて行つた。勿論、其前に平談のみか、贈答の歌にも知識を誇つて、古歌を符牒式に
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