[#「はら」に傍線]薄い感じはするが、至尊種姓らしい格《ガラ》の大きさは、十分に出てゐる。
此院などが、至尊風の歌と、堂上風――女房・公卿の作風から出る概念――の歌とを、極端に一致させられた方だと思はれる。此王朝末から移るゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍点]の頃だけ見ても、皇室ぶりの歌は、公卿の歌風とは違うてゐる。個々の作品に就てゞはなく、主題となつてゐるものが別なのだ。此は、精神的伝承もあり、境涯から来る心構への相違からも来ようが、概して内容の単純な、没技巧の物で、生活から来る内律の緩やかな、曲折の乏しいものであつた。崇徳院あたりから、おほまかな中に、技巧の公卿ぶりが、著しくなつて居る。典侍相当の女房の手を経た昔の宣旨様の手順で、口ずさみ[#「口ずさみ」に傍点]のまゝで示された御製が、後々推敲をせられる様になり、文芸作品としての意味で、度々臣下の目にも触れる。
かうした傾向は、王朝初期百年の終り頃から見えて来て、臣下から、歌を教授する風も、出来たのだらう。歌式が段々力を持つて来るに連れて、至上の為、或は皇子の為の歌式・歌論・標準歌集などが出来る。私は、伊勢・貫之などに代表させて、御製相談役の成立した頃の姿を考へてゐる。降下せられた御製を書きとり、又写し直す女房は、古くは添刪にも与つたらしい。歌読みで同時に歌式学者であつた――古今序にさへ歌品を序でた――貫之風の殿上人が召される様になつたのは、後の形だ。御製が、宣命と同格に考へられた時代が去つて、御製の詩文に与る博士や、警策の聞えある公卿などの態度を、移す様になつた。此風が、中期の村上朝の成形となり、和歌所が出来たのである。
奈良以前は、長く歌の謡はれた期間が含まれてゐる。大歌を扱ふ雅楽寮の日本楽部――或は其前身――の歌人・歌女が、声楽以外に詞章の新作に与つた様である。此が、日本紀にある当世詞人(崇峻紀)や、斉明天皇の御製を伝誦したとある――実は代表者――歌人(孝徳紀)や、天智の亡妃を悼む心を代作した詞人(孝徳紀)や、万葉巻一の夫帝の山幸を犒《ねぎら》ふ歌を後の皇極帝の為に、代つて齎《もたら》した――実は代作――との理会の下に、姓名なども伝つた人のある訣である。此宮廷詞人が、声楽を離れて、詞章の代作に専らになつたらうと思はれるのは、柿本人麻呂などが初めの形であらう。宮廷詞人は、祭事・儀礼の詞章を作るばかりになつて来る。宮
前へ 次へ
全38ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング