下げ]
印南野《イナミヌ》も行き過ぎ不敢《カテニ》思へれば、心|恋《コホ》しき加古《カコ》の川口《ミナト》見ゆ(人麻呂――万葉巻三)
笹の葉はみ山もさやに騒《サヤ》げども、我は妹思ふ。別れ来ぬれば(同――万葉巻二)
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内外の現象生活がぴつたり相叶うてゐる。日本の短歌に宿命的の抒情味の失せないのは、人麻呂がこんな手本を沢山に残したからである。長歌の方では、完全に叙景と抒情とが一つに融けあつてゐるのは尠い。まづ巻二の挽歌の中にある、通ひ慣れた軽《カル》の村の愛人が死んだのを悲しんだ歌などを第一に推すべきであらう。つまりよい歌になると、人麻呂のも黒人のも、情景が融合して、景が情を象徴するばかりか、情が景の核心を象徴してゐる様に見えるのである。
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もみぢ葉の散り行くなべに、たまづさの使を見れば、会ひし日思ほゆ
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と言ふのは、其挽歌の反歌であるが、黄葉の散るのを目にしてゐる。其時に、自分の脇を通つて遠ざかつて行く杖部《ハセツカヒベ》――官用の飛脚の様なもの――を見ると「わが家へも、ひが呼びに来たことがある。あのまだ生きて会うた
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