漕ぎ廻《タ》み行きし※[#「木+世」、第3水準1−85−56]《タナ》なし小舟(黒人――万葉巻一)
[#ここで字下げ終わり]
夜ふけて、昼見た唯一艘の丸木小舟のどこかの港で船がゝりした様子を思ひやつてゐるのである。瞑想的な寂けさで、而も博大な心が見える。
黒人の此しなやかさ[#「しなやかさ」に傍点]の、人麻呂から来てゐる事は、明らかである。叙事詩や歌垣の謡や、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の流布して歩いた物語歌の断篇やら、騒がしいものばかりの中に、どうしてこんなよい心境が、歌の上に現れたのであらう。此は、恐らく、悲しい恋に沈む男女や、つれない世の中に小さくなつて、遠国に露命を繋ぐ貴種の流離物語や、ますら雄[#「ますら雄」に傍線]といふ意識に生きる、純で、素直な貴種の人が、色々な艱難を経た果が報いられずして、異郷で死ぬる悲しい事蹟などを語る叙事詩が、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の手で撒き散らされて、しなやかな物のあはれに思ひしむ心を展開させたのである。其が様式の上には、豊かな語彙を齎《もたら》し、内容の方面では、しなやかで弾力のある言語情調を、発生させたのである。
[#ここから2字
前へ 次へ
全48ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング