が時流を遥かに抜け出て、奈良末期の家持の短歌に現れた心境に接続してゐる処である。其程其点でも、知らず識らずにも、長い将来に対して、手が届いてゐた事を示してゐる。人麻呂の達した此心境は、客観態度が完成しかけて来た為だ、と思ふのが正しいであらう。此静かな方面を更に展開したのは、高市黒人である。近江の旧都を過ぎる歌にしても、人麻呂のも短歌は優れて居るが、黒人の歌の静かに自分の心を見てゐるのには及ばない。
[#ここから2字下げ]
漣《サヽナミ》の滋賀の辛崎、幸《サキ》くあれど、大宮人の船待ちかねつ(人麻呂――万葉巻一)
漣の滋賀の大曲《オホワダ》、澱《ヨド》むとも、昔の人に復《マタ》も遭はめやも(同)
古の人に我あれや、漣の古き宮処《ミヤコ》を見れば 悲しも(黒人――万葉巻一)
漣の国《クニ》つ御神《ミカミ》の心荒《ウラサ》びて、荒れたる宮処《ミヤコ》見れば 悲しも(同)
[#ここで字下げ終わり]
黒人の歌は、伝統を脱した考へ方を対象から抽き出してゐる。後の方は叙事風に見えるが、誰もまだ歌にした事のない時に、静かな心で、史実に対して、非難も讃美も顕さないで、歌ひこなして居る。没主観の芸道を会得 
前へ 
次へ 
全48ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング