声調の快さだけでも、人麻呂の手柄が、紫式部・西鶴・近松・芭蕉の立派な作品よりも、高く値打ちをつけても、異存を挟む事は出来まい。
人麻呂の長歌――代作と推定せられるものでも――についた反歌は、長歌其ものより、いつも遥かに優れて居て、さすがに天才の同化力・直観力に思ひ到らされる物が多い。人麻呂を悲劇の主人公と考へたがる人が多い。だが、人麻呂は、たとひ其が、実感に充ちた体験の具現せられたものであつた場合にも、底の気分は、語の悲しさに沈まないで、ゆつたりとしてゐる。此は人麻呂の宮廷詩人としての鍛錬から来たとも考へられる。だが、逆に個性の出るせつぱつまつた心持ちに到らない場合には、類型の思想と、技巧の古風で堂々とした、そして若干の新流行をも織りこんだ、様式の美しさを以て塗りつぶして来た常習が、個性の表現を鈍らせ、感激を枉《ま》げて了ふのである。芸術意識が現れて居たとしたら、もつとつゝこんだ心境を見せたであらうと言ふ非難も出さうである。併しつきつめた情熱に、止むにやまれずあげた叫びと思はれて来、或は又万葉びとの素朴な、烈しく愛し、深く悲しむ事の出来た心の印鑰《オシテ》として、伝習的に讃美の語を素人 
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