しだけに、歌詞も支那を学んで、小屋をさへ造らぬにかゝはらず、宴歌がやはり歌はれる事になつたのだ。つまり、日本の遠来神を迎へた式が賓客歓待の風に変つても、古義だけは残つて居たのを、すつかり変へて、新しい宴会の様式がはじめられた事になる。此が日本のうたげ[#「うたげ」に傍線]の中途の暫らくの気まぐれな変化で、後には又元の方法に近く戻つて来た様である。でも其間にやはり、古い意義を存して、天子外出の時の方法としての警蹕・反閇《ヘンバイ》の形を、少しく大きくして、新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]のない宴遊をしたものと考へられぬでもない。

     八

日本に於て、最危い支那化の熱の昂まつてゐたのは、飛鳥時代の前後を通じての事で、殊に末に行く程激しさを加へた。中途に調和者の姿をとられた天武天皇も、実はやはり時代病から超越出来なかつた。唯其が内面に向うて行つた為に、反動運動者には歓ばれ、世間の文化も実際に高まつて来た。だから、此天子の世の文化施設の細やかな所まで、手の届いて居る事も、基く所を思はせて、有効でありさうな事に、着実な方針が秩序立つて現れて居る。
藤原の都は、国力の充実せぬのに、先
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