見わたせば、武庫の泊りゆ 出づる船びと(同)
磯齒津《シハツ》山 うち越え来れば、笠縫の島漕ぎ隠る ※[#「木+世」、第3水準1−85−56]《たな》なし小舟(同)
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殆どすけつち[#「すけつち」に傍線]風の写生である。かうした初歩の写生は、詩歌の上には値うちの低いものであるが、藤原[#(ノ)]都の時代に、かうした主観を離れて了うた様な態度に入る事の出来たのは、此人の発明の才能が思はれる。情景相伴ふのは、日本の短歌の常になつては居るが、其が発生したのは、古代の詩の表現法をひた押しに押し進めたゞけであつて、天分の豊かな人が此上に、自分の詩境を拓いたのに過ぎない。歴史的に不純な物の多い宴歌の形を、殆ど純粋といふ処まで推し進めたのは、驚いてよい事だ。此も朗かさが持つ自在の現れであらう。

     一〇

赤人になると多少概念と、意図がまじる様である。「田子の浦ゆ」の歌を見ても、没主観は右の黒人の歌に似てゐるが、「ま白にぞ……雪はふりける」と言ふ処に、拘泥が見える。
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み吉野の象山《キサヤマ》の際《マ》の木梢《コヌレ》には、許多《コヽダ》も騒ぐ鳥の声かも(赤人――万葉巻六)
ぬばたまの夜の更けゆけば、楸《ヒサギ》生ふる清き河原に、千鳥|頻鳴《シバナ》く(同)
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写生の上々と評されてゐる歌である。山の際の木立を心に浮べて、鳥の声を聴き澄してゐるのだ。寝てゐるのである。目に山の際を仰いでゐる場合としても、又変つた味ひが生じる。鳥の声に心静かに聴き入つて居る。此歌の中には、深い暗示のこもつて居る様な気がする。見事、其霊を捉へた歌である。此歌も次の歌も、聴覚から自然の核心に迫らうとしてゐる。聴覚による新しい写生の方法を発見してゐる。ともすれば、値打ちの怪しまれる叙景詩も、こゝまで来れば、芸術としての立ち場は犯し難い。赤人は聴覚で自然を観ずるのが得意だつたか。
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朝凪ぎに楫の音聞ゆ。御饌《ミケ》つ国《クニ》 野島の海部《アマ》の船にしあるらし(万葉巻六)
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赤人の歌は人麻呂のに比べると、全体として内容的になつて、形式美をあまり重んじてゐない。人麻呂の様な、形式の張り過ぎた歌は少い。さうして、単純化する力は十分に持つて居た。同じ時代に居てやゝ年長と思はれる笠金村などが、人麻呂を学んで脱することの出来ないで居る間に、赤人は自分の領域を拓いて行つた。彼がまづ拓いたと思はれるのは、趣向のある歌である。自然を矯める傾向はそこに兆したが、みやびと言ふ宮廷風・都会風の文学態度を創立して、都と鄙との区別を立てる様な傾向の先駆をした。
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春の野に菫つみにと、来し我ぞ、野を懐しみ、一夜寝にける(万葉巻八)
あしびきの山桜花、日並《ケナラ》べてかく咲きたらば、いたも恋ひめやも(同)
吾が夫子《セコ》に見せむと思ひし梅の花。それとも見えず。雪の降れゝば(同)
明日よりは、春菜摘まむと標《シ》めし野に、昨日も 今日も 雪はふりつゝ(同)
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所謂ますら雄ぶり[#「ますら雄ぶり」に傍線]から遠ざかつたたをやめぶり[#「たをやめぶり」に傍線]を発生させたのは、この人である。邑落生活を忘れ、豪族は官吏としての意識を明らかに持つ様になつた奈良の中期には、もう都鄙・官民の別を示すだけの風習が生じた。従来の調子や表現を旧式の歌と考へ、素朴を馬鹿にし、宮廷を中心とする貴族生活の気分を十分に味はゝうとする享楽傾向が顕れて来た。赤人は其|先駆《サキガ》けであつた。平安朝の文学に於ける優美は、赤人に始まると言うてよい。貫之が赤人を人麻呂に比較する程値打ちをつけて考へたのは、其流行の祖宗として尊んだのであつた。
赤人は融通のきく才人であつたと思はれる。人麻呂調の抒情味の勝つた歌も作れば、黒人式の没主観を体得した様でもある。黒人――赤人との播州海岸の覊旅歌を見ると、殆ど赤人の個性は没して居て、而も歌としては、値打ちの高い物を作つてゐる。
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桜田へ鶴《タヅ》なき渡る。愛知潟《アユチガタ》汐干にけらし。鶴なき渡る(黒人――万葉巻三)
和歌の浦に汐みち来れば、潟《カタ》をなみ、蘆辺《アシベ》をさして、鶴鳴きわたる(赤人――万葉巻六)
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此二つの歌を並べて見ると、赤人が黒人を模してゐた様はよく見える。其上、前の吉野の宮の歌二首の如きは、
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足引の 山川の瀬の 鳴るなべに、弓月嶽《ユヅキガタケ》に 雲立ち渡る(万葉巻七)
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人麻呂の此歌に、既に同様の静観が現れてゐるから、赤人の模倣した筋路も考へられる。
赤人の工夫した優美は、平穏な生活を基調として、自然
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