してゐた様である。一・二句などは、誇張や、事実の興味に踏みこみ易い処を平気で述べてゐる。主観を没した様な表現で、而も底に湛へた抒情力が見られる。此が今の「写生」の本髄である。
第一首は、これに比べると調子づいては居るが、此はもつと強い感動だからである。併し、人麻呂の場合の様に、如何にも宴歌の様な、濶達な調子で、荘重に歌ひ上げる様な事はして居ない。人麻呂のには、悲しみよりは、地物の上に、慰安詞をかけてゐる様な処が見えるのは、滋賀の旧都の精霊の心をなだめると言ふ応用的の動機が窺はれる。よい方に属する歌であるが、調子と心境とそぐはない処がある。
黒人は静かに自身の悲しみや憧れる姿を見て居た人である。抒情詩人としてはうつてつけの素質である。数少い作物の内、叙景詩には、優れた写生力を見せ、抒情詩にはしめやかな感動を十分に表してゐる。さうした態度の意識は恐らくなかつたらうが、素質にさうした心境に入り易い純良で、沈静した処があつた為、創作態度を自覚した時代に入るに、第一要件だつた観照力が自ら備つて居たのであらう。
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何処《イヅク》にか 船泊てすらむ。安礼《アレ》[#(ノ)]崎 漕ぎ廻《タ》み行きし※[#「木+世」、第3水準1−85−56]《タナ》なし小舟(黒人――万葉巻一)
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夜ふけて、昼見た唯一艘の丸木小舟のどこかの港で船がゝりした様子を思ひやつてゐるのである。瞑想的な寂けさで、而も博大な心が見える。
黒人の此しなやかさ[#「しなやかさ」に傍点]の、人麻呂から来てゐる事は、明らかである。叙事詩や歌垣の謡や、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の流布して歩いた物語歌の断篇やら、騒がしいものばかりの中に、どうしてこんなよい心境が、歌の上に現れたのであらう。此は、恐らく、悲しい恋に沈む男女や、つれない世の中に小さくなつて、遠国に露命を繋ぐ貴種の流離物語や、ますら雄[#「ますら雄」に傍線]といふ意識に生きる、純で、素直な貴種の人が、色々な艱難を経た果が報いられずして、異郷で死ぬる悲しい事蹟などを語る叙事詩が、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の手で撒き散らされて、しなやかな物のあはれに思ひしむ心を展開させたのである。其が様式の上には、豊かな語彙を齎《もたら》し、内容の方面では、しなやかで弾力のある言語情調を、発生させたのである。
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印南野《イナミヌ》も行き過ぎ不敢《カテニ》思へれば、心|恋《コホ》しき加古《カコ》の川口《ミナト》見ゆ(人麻呂――万葉巻三)
笹の葉はみ山もさやに騒《サヤ》げども、我は妹思ふ。別れ来ぬれば(同――万葉巻二)
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内外の現象生活がぴつたり相叶うてゐる。日本の短歌に宿命的の抒情味の失せないのは、人麻呂がこんな手本を沢山に残したからである。長歌の方では、完全に叙景と抒情とが一つに融けあつてゐるのは尠い。まづ巻二の挽歌の中にある、通ひ慣れた軽《カル》の村の愛人が死んだのを悲しんだ歌などを第一に推すべきであらう。つまりよい歌になると、人麻呂のも黒人のも、情景が融合して、景が情を象徴するばかりか、情が景の核心を象徴してゐる様に見えるのである。
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もみぢ葉の散り行くなべに、たまづさの使を見れば、会ひし日思ほゆ
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と言ふのは、其挽歌の反歌であるが、黄葉の散るのを目にしてゐる。其時に、自分の脇を通つて遠ざかつて行く杖部《ハセツカヒベ》――官用の飛脚の様なもの――を見ると「わが家へも、ひが呼びに来たことがある。あのまだ生きて会うた日のことが一々思ひ出される」と言ふので、沈潜といふより、事件の興味で優れてゐる歌だが、此も叙事に流れず、主題の新しく外的に展《ひろが》つて行つた道筋がよく見える。調子も、落ちついて、寂々と落葉を足に踏みながら過ぎる杖部の姿が、耳から目に感覚を移して来る。それが、すつぽりと、悲しい独りになつた自覚に沈んでゐる内界と、よく調和してゐる。
純抒情の歌は、やはり少し劣る様である。まだ抒情態度は完全に発生して居ない。人麻呂自身の糶《せ》り上げた抒情詩も、黒人だけの観照態度が据ゑられなかつたのも無理はない。黒人の方は寂しいけれども、朗らかである。しめやかであるけれど、さはやかな歌柄である。
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わぎも子に猪名野《ヰナヌ》は見せつ。名次《ナスキ》山 角《ツヌ》の松原 いつかしめさむ(黒人――万葉巻三)
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など、軽い心持ちで歌つてゐる中に、黒人のよい素質がみな出てゐる。妻を劬《いたは》る心持ちの、拘泥なく、しかも深い愛をこめて見える。宴歌として当座に消え失せなかつたのも、故のあることである。
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住吉《スミノエ》の榎津《エナツ》に立ちて、
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