けても見出されない。
柿本人麻呂の作と伝へる歌には、宮廷詩人(大歌作り)として職業意識から、さうしてまだ個性を表現するまでに到らなかつた時代の是非なさ、類型に堕ちた代作物がうん[#「うん」に傍線]とある。だから、普遍的の低級な熟せない創作動機から出来た其等の作物を以て、人麻呂の芸術を論ずるめど[#「めど」に傍点]としてはならぬ。又、其から人麻呂の伝らぬ伝記の資料をとり出すには、大変な注意がいる。人麻呂の作とせられて居ないもので、人麻呂に代作を依頼した人、又は其を謡うた人々の作物の様に思ひ做されて来り、前書きも其人々の作として出されたものも沢山ある。
人麻呂が天武持統の皇子たちの舍人であつた証拠として挙げられてゐる三四種の歌などは、実は舍人等の合唱すべき挽歌として、人麻呂が自身の内にない空想から作り上げたものである。従つて実感の出ようはずはない。芸術意識を持ち始めてから、久しい年月を経た後世の社会なら、天才の直観力で、他人の体験に迫つて行く事も出来よう。が、まだ芸術意識の尠しもない応用的な言語の羅列から、自身の意力で、半ば芸術に歩みよせた程の人麻呂であつた。様式の美――ある条件をつけての声調の快さだけでも、人麻呂の手柄が、紫式部・西鶴・近松・芭蕉の立派な作品よりも、高く値打ちをつけても、異存を挟む事は出来まい。
人麻呂の長歌――代作と推定せられるものでも――についた反歌は、長歌其ものより、いつも遥かに優れて居て、さすがに天才の同化力・直観力に思ひ到らされる物が多い。人麻呂を悲劇の主人公と考へたがる人が多い。だが、人麻呂は、たとひ其が、実感に充ちた体験の具現せられたものであつた場合にも、底の気分は、語の悲しさに沈まないで、ゆつたりとしてゐる。此は人麻呂の宮廷詩人としての鍛錬から来たとも考へられる。だが、逆に個性の出るせつぱつまつた心持ちに到らない場合には、類型の思想と、技巧の古風で堂々とした、そして若干の新流行をも織りこんだ、様式の美しさを以て塗りつぶして来た常習が、個性の表現を鈍らせ、感激を枉《ま》げて了ふのである。芸術意識が現れて居たとしたら、もつとつゝこんだ心境を見せたであらうと言ふ非難も出さうである。併しつきつめた情熱に、止むにやまれずあげた叫びと思はれて来、或は又万葉びとの素朴な、烈しく愛し、深く悲しむ事の出来た心の印鑰《オシテ》として、伝習的に讃美の語を素人・くろうと[#「くろうと」に傍点]から受けて来た歌の大方は、大抵は叙事脈に属する謡ひ物で、誇張の多い表現に過ぎないのである。
東歌の如きも、又誰にも素朴な物と言ふ予期を以て向はせる民謡(小唄)集でも、窮境に居て発した情熱と見えるのは、実は叙事詩の類型に入つた、性愛のやるせなさをまぎらはす為に、口ずさみ/\した劇的構造のまじつた空想歌に過ぎないものが多い。作者の歌を作つた境涯を歌から想像して見ると、其叫びの洩れるはずのない物が多い。其多く製作せられる場所は、歌垣の庭の頓才問答・誇張表現・性欲から来る詭計・あげあしとり[#「あげあしとり」に傍線]・底意以上のじやれあひ[#「じやれあひ」に傍点]などが、実感を超越して、一見激越した情熱にうたれる様な物を生み出させたのである。尤、さうした物の出来るのも、社会の底の生活力が、荒くて、強かつた時勢の現れと言ふ点だけに、尚古家の予期する万葉人の強い生命を認める事は出来る。たゞさうした成立に伴ふ表現法は、古代芸術に関した鑑賞法を、根柢から換へて見ねばならない事を思はせるのである。
九
人麻呂の作物に静かで細かい心境のみが見えるのは、人麻呂が時流を遥かに抜け出て、奈良末期の家持の短歌に現れた心境に接続してゐる処である。其程其点でも、知らず識らずにも、長い将来に対して、手が届いてゐた事を示してゐる。人麻呂の達した此心境は、客観態度が完成しかけて来た為だ、と思ふのが正しいであらう。此静かな方面を更に展開したのは、高市黒人である。近江の旧都を過ぎる歌にしても、人麻呂のも短歌は優れて居るが、黒人の歌の静かに自分の心を見てゐるのには及ばない。
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漣《サヽナミ》の滋賀の辛崎、幸《サキ》くあれど、大宮人の船待ちかねつ(人麻呂――万葉巻一)
漣の滋賀の大曲《オホワダ》、澱《ヨド》むとも、昔の人に復《マタ》も遭はめやも(同)
古の人に我あれや、漣の古き宮処《ミヤコ》を見れば 悲しも(黒人――万葉巻一)
漣の国《クニ》つ御神《ミカミ》の心荒《ウラサ》びて、荒れたる宮処《ミヤコ》見れば 悲しも(同)
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黒人の歌は、伝統を脱した考へ方を対象から抽き出してゐる。後の方は叙事風に見えるが、誰もまだ歌にした事のない時に、静かな心で、史実に対して、非難も讃美も顕さないで、歌ひこなして居る。没主観の芸道を会得
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