進国から見くびられまいと努める表向きの繕ひや、文化の敷き写しに力を籠めてゐた時である。而も、今までの粗野で、寂しい、狭い量見を持ち合うてゐた世間観が改まつて、急に明るみへ出た様に、民族性がはなやかに張つて来て、広い心を持つて、強く歩く事を知つて来た時の様である。時代の中心勢力は空疎な概念で働いて居ても、はでやかな時代の流れが世間を浮き立たせて、快活な生を味はしめ、社会の底に自信力を動き出さしめる。此は、秀吉在世当時を見ても、綱吉在世の時代を見ても、明らかな事である。うはついた時代だからと言うて、国民生活が悪く傾くとは言はれない。却つて小さな善悪をのり超えた、張り充ちた社会意力が出て来る事が多いのである。民族なり、国民なりの側から見れば、讃美してよい時勢だと言へる。だから、持統天皇及び其周囲の豪華な生活が、俄かに、国の生活に張り合ひを感じさせ、案外に良い結果が来た。大抵、さうした場合、一等其利益を受けるのは芸術である。此時期に、人麻呂が出たのも不思議はない。でも、其時勢を、すぐに明治の鹿鳴館が象徴した世相と一つに見てはならぬ。
古代からの社会組織は、既に天智・天武の御宇の剛柔二様の努力で、ほゞ邑落生活の小国の観念が、郡制の下に国家意識に改まりかけて来たし、小国の君主たる国造は、郡領として官吏の列に加へられ、国造が兼ねて持つてゐた教権は政権と取り離され、国家生活の精神の弘通を妨げる邑落時代からの信仰は、宮廷の宗教に統一せられようといふ意図の下に、国造近親の処女は采女として宮廷に徴されて、其信仰儀礼に馴らされた。全体として見れば、新しく目をあいた宮廷生活が、豪華な気分に充ちてゐたのは、道理でもあり、よい事でもあつた。支那模倣も、よい側から見れば、新しい国家意識を叩き覚ます為の、内国へ対しての示威ともなつて居た。
此時勢に、人麻呂は恐らく大和の国の添上《ソフガミ》の柿本に出たことゝ思はれる。彼が宮廷詩人として、宮廷の人々の意志を代表し、皇族の儀式の為の詞曲を委託せられて製作した痕は、此人の作と伝へられる万葉集の多くの歌に現れてゐる。作者自身の感激を叫びあげたにしては、技巧の上に新味は出して居ても、結局類型を脱せないものが多い。吉野の離宮の行幸に従うて詠じた歌や、近江の旧都を過ぎた時の感動を謡うた歌の類の、伝習的に高い値を打たれた物の多くが、大抵は、作者独自の心の動きと見るよりも、宮廷人の群衆に普遍する様な安易な讃美であり、悲歎である。
けれども人麻呂は、様式から云へば、古来の修辞法を極端に発展させて、斬新な印象を音律から導き出して来る事に成功した。譬喩や、枕詞・序歌の上にも、最近の流行となつてゐるものを敏感に拾ひ上げて、其を更に洗ひ上げて見せた。形の上で言へば、後飛鳥期の生き生きした客観力のある譬喩法を利用して、新らしい幾多の長短の詞曲を、提供した。同時に生を享けた人々は、其歌垣のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]にも、或は宴席の即興にも類型を追ふばかりであつた。才に餓ゑ、智にかつゑ、情味に渇いて居た時代の仰望は、待ち設けた以上に満されたであらう。
天才の飛躍性は、後世の芸論に合ふ合はぬよりは、まづ先代から当代に亘つて、社会の行くてに仄めく暗示を掴むことであり、或は又新らしい暗示を世の中に問題として残す力を言ふのである。人麻呂は其をした。ある点、後生が育てる筈の芽・枝までも、自分で伸ばし、同時に摘み枯らした傾きがある。だから長歌は、厳格な鑑賞の上から言へば、人麻呂で完成し、同時に其生命を奪はれた。
奈良の詞人の才能は、短歌に向うてばかり、益伸びて行つた。長歌は真の残骸である。赤人にしても、其短詩形に於て表して居る能力は、長歌に向うては、影を潜めてしまつた様に見える。新らしく完成せられた小曲に対して集中する求心的感動の激しさ、其で居て観照を感情に移すのに毫も姿を崩さない、静かな而もねばり強い把握力の大きさには、驚かされる。其赤人の長歌が、富士の歌と言ひ、飛鳥神南備の歌と言ひ、弛緩した心を見せて居るに過ぎない。それに短篇に段々傾いて行つて居るのも、気分が長詞曲にはそぐはなくなつたことを見せて居る。奈良朝も、後になるほど、長歌の製作力が、世間全体になくなつて来る。憶良の長歌の如きも、知識と概念との、律動の伴はぬ羅列だ。一貫する生命力を感受する事の出来ぬ生ぬるい拍子によろけて居る様に見える。
特に憶良の歌に著しく所謂延言の多く用ゐられたのは、音脚に合せる為で、此点から見ても長歌は、奈良初期に既に生命を失ひ、中期には、残骸となつて居た事が知れる。高橋虫麻呂の長歌の如きも、かなりの長篇はあつても、皆、叙事詩の題材を、実際叙事的に生ぬるく叙述したに過ぎない。だから末期の家持等になると、昔を憧れる心から、人麻呂の筆法をなぞつても、勿論古風な荘重味は、か
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