詠む事に価値を認める心を養うて居た。此が日本の叙景詩の始まりである。又歌における純客観態度の成立する様になつた原因なのだ。
五
其考へられる原因は旅行である。国家意識の盛んになつて、日本の版図の中を出来るだけ見ようとする企ては、後飛鳥期から著しくなつて来る。伝説的には遠方に旅した貴人の行蹟は語られてゐるが、多くは遠くより来り臨んだ邑落時代の神の物語の、人間に翻案せられたものである。
遠国への旅行が、わりに自由にせられる様になつたのは、国家意識の行き亘つた事を示してゐる。此は前飛鳥期からの事で、東国のある部分を除けば、西は九州の辺土も、あぶない敵国の地ではなくなつた。
併し、地方官や、臨時に派遣せられる官吏たちの見聞が、直に彼等を動かして、叙景詩を発明させたと言ふ事は出来ない。天子の行幸も段々かなり遠方に及ぶ様になつた。狩り場に仮小屋を構へても、家居の平生に見る外界よりは、刺戟の新なものがあつた。「家なる妹」を偲ぶ歌ばかり口誦して居られない様に、徐々に叙景の機運が向いて来た。
其又妹を偲ぶ歌も、実は純粋に自分を慰める為のものではなかつた。奈良朝も末になつて、おのれまづ娯しむ歌は出来て来たが、其までは皆相手を予想して居た。其も一人の恋人を対象とした様な作物は、後世の※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]家の空想によつて、万葉集中に充満して居る様に思はれて来たが、ほんとうは大抵多人数の驚異をめど[#「めど」に傍点]に据ゑた、叙事脈の抒情詩であつたのである。旅行中に家人を恋しがつた歌の多くは、同行の旅人の共通の感情を唆る処に立ち場があつたのだ。其等の歌は、旅のうたげ[#「うたげ」に傍線]の席で謡はれ、よく人々の涙を絞つて、悲劇の中に、生の充実と、人情の普遍を感得して、寂しい歓びを味ふのと似た慰みを感じさせれば、其歌は都の人々の口に愛誦せられる様になる。現に万葉集の覊旅歌や相聞の部に収めたものゝある部分は、さう言つた道筋を通つて、世の記憶や、記録の上に、簡単ながらある生活の俤を留めたのである。
一体、旅のうたげ[#「うたげ」に傍線]はどう言ふ時に行はれたか。私は、古代の遺風として、後飛鳥期に入つても、新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線]は厳重に行はれ、たとひ一泊するにしても、新しく小屋をかければ、寿詞を唱へなければ、安心してそこに仮寝の夢を見る気にはなれなかつたものと信じる。人家に宿る場合は屋敷を踏み鎮め、祓へを行ふ事によつて安らかに居つく事が出来、山野海岸に仮廬を作つた場合は、必、新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線]をした。さうして直会《ナホラヒ》なる新室のうたげ[#「うたげ」に傍線]を行うた事と考へるのが、間違ひとは思はれない。
私も以前は、旅の途すがら、海原を見|霽《はら》し、美しい花野の展けて居る場処に来た旅人たちが、景色にうたれて、歌を詠じたものと考へて居た。併し其は単なる空想であつた。仮小屋でも、新室は新室である。うたげ[#「うたげ」に傍線]の場処で、即興に頓才を競ふ心持ちを持つた人々が、四顧の風景の優れた小屋に居て、謡ひ上げる歌は、段々其景を叙することに濃かに働いて来る。景を以て情を抒べる方便にばかりは、使つて居られなくなつて来た。
六
其に一つは、漢魏以後の支那文学の影響が、帰化した学者・僧侶や、留学帰朝者などから、直接に授けられた時代である。我々が考へる平安朝初期、嵯峨天皇を中心とした漢文学の盛況と比べて、文章に於てこそ、発想の自由を欠いた痕が見ゆれ、学問としては、容易に優劣をきめる事も出来ぬほどに進んで居はせなかつたかと考へられるのである。書物にしても、学者の文庫に存在を晦まして居たにしても、日本見在書目録・本朝書籍目録などの筆者の、聞きも見もしなかつた物さへ渡来して居たらう事は、空想でない証拠が、ぼつ/″\ながら挙つて来て居る。有識有位の階級には、見てくれや物ずきからも、第試の必要からも、普通知識の嚢と見なされた書物は読まれた。併し奈良朝或は其以前から、日本人の文学ずきで、硬い学問を疎にしたらう形跡は見えて居る。其が平安朝になると、目に見えて激しくなり、官吏登庸試験も課目が替り、学吏の向ふ専門の道々すらも、堅い方面は廃止になつて了うた。
晋書張文成の列伝に、朝鮮・日本の旅客が、張文成の門に到つて、片紙でも貰ひ受けようとする者の多い事を記して居る。今まで、一言半句も、文章を生む苦しみを経験せない、永い祖先以来の生活の後、俄《には》かに漢文学を模倣して書くだけの能力は、社会的にまだ熟しても居ない。まだ/\懐風藻に残つた作物が、文学の才能の宿命として欠けて居る民族でもなかつた事を喜ばせるに十分である。まづ入り易いのは、散文よ
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