あるじの健康をほぐ[#「ほぐ」に傍線]が、同時に建て物のほぎ言[#「ほぎ言」に傍線]ともなるのである。かうした不思議な発想法から、象徴式の表現法も生れ、隠喩も発生した。勿論直喩法も発達した。併し、概して言へば直喩法は、後飛鳥期にもあつたが、藤原期の柿本人麻呂の力が、主としてはたらいて、完成した様である。
隠喩及び象徴法は、寿詞の数主並叙法から発生したと言うてよいが、尚他にも誘因があるとすれば、前の出まかせの叙述法が其である。此並叙法を寿詞が採る様になつた根本理由は、今は述べない。日本文学の発生を論ずる文章で、近く発表する心ぐみである。
顕宗天皇の伝説で見ても、室寿詞が一面享楽的な文章を派生してゐる様子が見える。神に扮した人が、神の資格に於て、自らも然う信じて新室に臨んだ風が、段々忘れられて、飛鳥朝の大和辺では、其家よりも高い階級と見られる人が賓客《マレビト》として迎へられ、舞人の舞を見、謡を聞く事は勿論、舞人なる処女を一夜の妻に所望して、その家に泊つた事は、允恭紀に見える事実である。新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線](ほぎ――祝福)が、段々「宴《ウタゲ》」と言ふ習俗を分化した元となつた事は、此ほか万葉集などを見ても知れる。
[#ここから2字下げ]
新むろを踏《フム》静子《シヅメコ》(?)が 手玉ならすも。玉の如《ゴト》 照りたる君を 内にと、まをせ(万葉集巻十一)
新室の壁草刈りに、いましたまはね。草の如 嫋《ヨラ》へる処女は、君がまに/\(同)
[#ここで字下げ終わり]
此旋頭歌は、もはや厳粛一方でなく、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の後に、直会《ナホラヒ》風のくづれ[#「くづれ」に傍点]の享楽の歌が即座に、謡はれた姿を留めて居るものではないか。歌垣のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]に練り上げた頓才から、室の内外の模様に出任せに語をつけて、家あるじの祝福、賓客《マレビト》の讃美などの、類型式ながら、其場の興を呼ぶ事の出来る文句が謡はれる風が出来て来た。其が家を離れない間は、単なる叙景詩の芽生えに過ぎないといふ点では、道行きぶりや、矚目発想法や、物尽しから大《タイ》して離れることが出来ないばかりか、性的な興味を中心にする傾向に向ひさへしたらう。処が古代人の家屋に対する信仰や習癖が、特殊な機会に、古くから外界に向いてゐた眼を逸らす事なく、譬喩化する事なく、人事以外の物を
前へ
次へ
全24ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング