りである。一番心の打たれるのは、山の外輪に添うて立ち並ぶ峰の松原である。その松原ごしに、阿弥陀は出現している訣《わけ》であった。十五夜の山の端から、月の上って来るのを待ちつけた気持ちである。下は紅葉があったり、滝をあしらったりして、古くからの山越しの阿弥陀像の約束を、活《いか》そうとした古典絵家の意趣は、併しながら、よく現れている。
此は、為恭の日記によると、紀州|根来《ねごろ》に隠れて居た時の作物であり、又絵の上端に押した置き式紙の処に書いた歌から見ても、阿弥陀の霊験によって今まで遁《のが》れて来た身を、更に救うて頂きたい、という風の熱情を思い見ることが出来る。だから、漫然と描いたものではなかったと謂《い》える。心願を持って、此は描いたものなのだ。其にしては絵様は、如何にも、古典派の大和絵師の行きそうな楽しい道をとっている。勿論、個人としての苦悶《くもん》の痕《あと》などが、そうそう、絵の動機に浮んで見えることは、ある筈がない。絵は絵、思いごとは思いごとと、別々に見るべきものなることは知れている。為恭は、この絵を寺に留めて置いて、出かけた旅で、浪士の刃に、落命したのであった。
今こう
前へ 次へ
全34ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング