伸《の》しあがった日輪の思われる阿弥陀の姿である。古語で雲居というのは、地平線水平線のことだが、山の端などでも、夕日の沈む時、必見ることである。一度落ちかけた日が、ぬっと伸しあがって来る感じのするものだが――、この絵の阿弥陀仏には、実によく、其気味あいが出ている。容貌の点から言うと、金戒光明寺の方が遥かに美男らしいが、直線感の多い描線に囲まれただけに、ほんとうのふくらみが感じられぬ。こちらは、阿弥陀というよりは、地蔵|菩薩《ぼさつ》と謂えば、その美しさは認められるだろう。腹のあたりまでしか出ていぬが、すっく[#「すっく」に傍点]と立った全身の、想見出来るような姿である。ところが其優れた山の描写が亦、最異色に富んで居る。峰の二上山形に岐《わか》れている事も、此図に一等著しい。金戒光明寺の来迎図《らいごうず》は、唯の山の端を描いたばかりだし、其から後のものは、峰の分れて見えるのは、凡《すべて》そこから道が通じて、聖衆が降って来るように描かれている。雲に乗って居ながら、何も谷間の様な処を通って来るにも及ばぬ訣《わけ》である。禅林寺の方で見ると、二脇士は山の曲《たわ》に関係なく、山肌の上を降っ
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