、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤《すす》ふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師《よろぼうし》」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感が靡《なび》きかかっている。
しかも尚、四天王寺には、古くは、日想観往生と謂われる風習があって、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行ったのであった。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海《ふだらくとかい》と言うた。観音の浄土に往生する意味であって、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》たる海波を漕《こ》ぎきって到り著《つ》く、と信じていたのがあわれである。一族と別れて、南海に身を潜めた平|維盛《これもり》が最期も、此渡海の道であったという。
日想観もやはり、其と同じ、必極楽東門に達するものと信じて、謂わば法悦からした入水死《じゅすいし》である。そこまで信仰においつめられたと言うよりも寧《むしろ》、自ら霊《たま》のよるべをつきとめて、そこに立ち到ったのだと言う外はない。そう言うことが出来るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思いつめ、何かに誘《おび》かれたようになって、大空の日を追うて歩いた人たちがあったものである。
昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀《ひまつ》りをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗|語彙《ごい》)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還《かえ》って来る。これを日《ひ》の伴《とも》と謂っている。宮津辺では、日天様《にってんさま》の御伴《おとも》と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと
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