に若干関係あるように見えようが、謂わば近代小説である。併し、舞台を歴史にとっただけの、近代小説というのでもない。近代観に映じた、ある時期の古代生活とでもいうものであろう。
老語部を登場させたのは、何も之を出した方が、読者の知識を利用することが出来るからと言うのではない。殆無意識に出て来る類型と択ぶ所のない程度で、化尼になる前型らしいものでも感じて貰えればよいと思うたのだ。こんな事をわざわざ書いておくのは、此後に出て来る数|个《か》条の潜在するもののはたらきと、自分自身混乱せぬよう、自分に言い聞かせるような気持ちでする訣である。
称讃浄土仏|摂受経《しょうじゅぎょう》を、姫が読んで居たとしたのは、後に出て来る当麻曼陀羅の説明に役立てようと言う考えなどはちっともなかった。唯、この時代によく読誦《どくしょう》せられ、写経せられた簡易な経文であったと言うのと、一つは有名な遺物があるからである。ところが、此経は、奈良朝だけのことではなかった。平安の京になっても、慧心僧都《えしんそうず》の根本信念は、此経から来ていると思われるのである。ただ、伝説だけの話では、なかったのである。此|聖《ひじり》生れは、大和葛上郡――北葛城郡――当麻村というが、委《くわ》しくは首邑《しゅゆう》当麻を離るること、東北二里弱の狐井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕|二上山《ふたかみやま》の姿を仰ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。
ここに予《あらかじ》め言うておきたいことがある。表題は如何ともあれ、私は別に、山越しの弥陀《みだ》の図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」の俤《おもかげ》が、藤原|南家郎女《なんけいらつめ》の目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたと言う空想の拠り所を、聖衆来迎図《しょうじゅらいごうず》に出たものだ、と言おうとするのでもない。そんなものものしい企ては、最初から、しても居ぬ。ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられて来たことが、ちっとでも訣《わか》って貰えれば、と考えていた。
四天王寺西門は、昔から謂《い》われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集《くんじゅ》したこと、凡《およそ》七百年ほどの歴史を経て
前へ
次へ
全17ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング