・西海の雲居に沈むに到つて、之を禮拜して見送つたわが國の韋提希夫人が、幾萬人あつたやら、想像に能はぬ、永い昔である。此風が佛者の説くところに習合せられ、新しい衣を裝ふに到ると、其處にわが國での日想觀の樣式は現れて來ねばならぬ訣である。
日想觀の内容が分化して、四天王寺專有の風と見なされるやうになつた爲、日想觀に最適切な西の海に入る日を拜むことになつたのだが、依然として、太古のまゝの野山を馳けまはる女性にとつては、唯東に昇り、西に沒する日があるばかりである。だから日想觀に合理化せられる世になれば、此記憶は自ら範圍を擴げて、男性たちの想像の世界にも、入りこんで來る。さうした處に初めて、山越し像の畫因は成立するのである。
だから、源信僧都が感得したと言ふのは、其でよい。たゞ叡山|横川《ヨガハ》において想見したとの傳説は傳説としての意味はあつても、もつと切實な畫因を、外に持つて居ると思はれる。幼い慧心院僧都が、毎日の夕燒けを見、又年に再大いに、之を瞻《ミ》た二上山の落日である。
今日も尚、高田の町から西に向つて、當麻の村へ行くとすれば、日沒の頃を擇ぶがよい。日は兩峰の間に俄かに沈むが如くして、又更に浮きあがつて來るのを見るであらう。
もし韋提希夫人が行する日想觀に當る如來像を描くとすれば、やはり亦波間に見える島山の上に、三尊佛をおくことであらう。さうした大水の、見るべからざる山の國では、どうしても、山の端に來り臨む如來像を想見する外はなかつたのである。
相摸國足柄上郡三久留部氏は、元來|三※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]部名《ミクルベミヤウ》に居た爲に稱した家名で、又釋迦牟尼佛とも書いて、訓は地名・家名の通りである。恐らくその地にあつた佛堂の本尊の名の、顯れた爲にさやう訓んだものだらうとせられてゐる。併し、こゝに一説がある。と言ふことは、釋迦三尊においても、阿彌陀像の場合のやうに、やはり拜まれた場合の印象が、さうした特異事情を釀し出したのではなからうか。即、目眩《メクルメ》く如く、三尊の光轉旋して直視することの出來ぬことを表す語とも見られるのである。即みくるべ[#「みくるべ」に傍線]はめくるめ[#「めくるめ」に傍線]又は、めくるめき[#「めくるめき」に傍線]であらうと思ふのは誤りか。或は歴史地理の説明にも少し骨を折れば、この考へなどは、忽消え失せるものかも知れぬ。が、あまり原由近似なるが故に、試みに記しておく。

私の女主人公南家藤原郎女の、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であつた。さうして又、佛教以前から、我々祖先の間に持ち傳へられた日の光の凝り成して、更にはな/″\と輝き出た姿であつたのだ、とも謂はれるのである。



底本:「折口信夫全集 第廿七卷」中央公論社
   1956(昭和31)年11月5日発行
底本の親本:「死者の書」角川書店
   1947(昭和22)年7月
初出:「八雲 第三輯」
   1944(昭和19)年7月
※底本の題名の下に書かれている「昭和十九年七月「八雲」第三輯、二十二年七月角川書店板『死者の書』」はファイル末の「底本の親本」「初出」に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年2月15日作成
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